
嘘をつくことを生業にする者たちが、愛においてのみ正直でいられるか⁉︎ スリリングな「大人の娯楽」として撮りあげたソダーバーグのスパイ・スリラー『ブラックバッグ』
脚本家デヴィッド・コープが『ミッション:インポッシブル』(1996年)の脚本執筆中に着想を得た、スパイの私生活という禁断の問い。
監督・撮影・編集の三役をひとりでこなすスティーブン・ソダーバーグが生み出した知的快楽の結晶。
嘘を見抜く能力を持つ諜報員(マイケル・ファスベンダー)とその妻である凄腕諜報員(ケイト・ブランシェット)、ジェームズ・ボンドを演じたピアース・ブロスナンがNCSC長官に扮し、ボンドの相棒マネー・ペニーを演じたナオミ・ハリスが局内カウンセラーを演じるなど映画ファンにはたまらないツイストしたキャスト陣。
スパイがスパイを究極の問いで炙り出す!「すべてに嘘をつける人間が、どうやって何かについて正直でいられるのか?」

Story:
現代のロンドン。英国の国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)のエリート諜報員ジョージ・ウッドハウス(マイケル・ファスベンダー)は、長年の諜報活動で培った特殊な能力を持つ男だ。彼は嘘を見抜く。職業上の矜持として「嘘をつく者は許さない」を信条とする彼が最も信頼すべき存在への疑惑という究極の試練に直面する。
NCSC内部に不正プログラム「セヴェルス」を盗み出した二重スパイが存在することが判明。ジョージに課せられた極秘任務「ブラックバッグ」は、容疑者5名の中から裏切り者を炙り出すことだった。容疑者は同じく諜報員のフレディ・スモールズ(トム・バーク)、出世頭のジミー・ストークス大佐(レゲ=ジャン・ペイジ)、情報分析官のクラリサ・デュボワ(マリサ・アベラ)、局内カウンセラーのゾーイ・ヴォーン(ナオミ・ハリス)。そして5人目が、ジョージの妻にして凄腕諜報員のキャスリン・セント・ジャン(ケイト・ブランシェット)であった。
与えられた時間はわずか1週間。ジョージは容疑者全員を自宅のディナーに招待し、コース料理の合間に静かな尋問を始めるのだが……。
Behind The Inside:
ミッション:インポッシブルが生んだ問い、30年越しの脚本
本作の脚本を手掛けたのは、『ジュラシック・パーク』『ミッション:インポッシブル』『スパイダーマン』など誰もが知るハリウッド大作を書いてきた脚本家界の重鎮、デヴィッド・コープ。彼がこの映画のアイデアを得たのは1996年、ブライアン・デ・パルマ監督・トム・クルーズ主演の映画『ミッション:インポッシブル』を執筆していた頃のことだった。
コープはCIAのアドバイザーたちの私生活に興味を持ち、あれこれと質問していた。するとある女性アドバイザーが「自分の仕事では人間関係を続けることができない」と打ち明けた。その言葉が心に刺さり、やがて劇中の台詞へと結実する。「すべてに嘘をつける人間が、どうやって何かについて正直でいられるのか?」
着想から脚本完成まで約30年。コープはWGA(全米脚本家組合)のストライキ中、発注なしの完全自主執筆という形でようやくこの脚本を書き上げた。完成した脚本を受け取ったソダーバーグはほとんど手を加えることなく映画化を決断。ソダーバーグがコープに唯一求めた変更点は、舞台をアメリカからイギリスに移すことだったという。
「ヴァージニア・ウルフなんか怖くない」諜報版夫婦戦争
ソダーバーグとコープが本作の核として参照したのが、1966年のマイク・ニコルズ監督作『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』だ。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが演じる中年夫婦が、密室で互いの虚飾を剥ぎ取り合うあの傑作映画。ソダーバーグとコープが語り合ったのは、「もしも、あのジョージとマーサ夫妻がスパイだったら」という仮定だった。それが本作の骨格にある。そして本作の主人公の名が「ジョージ」であることは、『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』への目配せである。
12ページのディナーシーンという賭け
本作の白眉は、ジョージが容疑者全員を招いたディナーパーティのシーンだ。脚本にして12ページ、登場人物は椅子から立ち上がることすらしない。ソダーバーグ自身が語る通り、最大の懸念は「誰も動かない」場面が退屈に見えてしまうことだった。しかし結果的に、このシーンは本作の心臓部として機能する。料理のコースが進むごとに緊張が高まり、誰もが疑い、誰もが疑われる。食卓という最も日常的な空間が、最も緊張した諜報の場となる逆説。スパイ映画がアクションではなく「会話」だけで成立しうることの証明だ。
『ミッション:インポッシブル』執筆時の澱のようなものが傑作に
『ミッション:インポッシブル』シリーズの1作目は、スリラーの巨匠ブライアン・デ・パルマがメガホンをとったということもあるが、デヴィッド・コープが書いた脚本は、スパイ映画というよりはサスペンス映画仕立てとなっていて、イーサン・ハントが冒頭30分間は犯人にしか見えない構造や仲間が次々と殺されてゆくなどシリーズ後続作では2度と繰り返されないプロットが網羅された異質な作品であり、時を経ても別格の輝きを放つスリラー映画として存在している。あの傑作を書いた張本人があの時に得た澱のような思いつきからストーリーに仕上げたのだから面白くないはずがない。
「父親好き」「老いた男の哲学」 愛すべきキャラクター造形
容疑者5名のうち最も際立った存在感を放つのが、マリサ・アベラが演じた衛星画像分析官クラリサだ。エイミー・ワインハウスの伝記映画『バック・トゥ・ブラック』でその強烈な存在感を見せつけたアベラが、本作でも磁場を持つ女性を鮮烈に刻み込んでいる。彼女の父親への偏愛と、そこから来る特定の男性への引力が物語に奇妙なコミカルさをもたらす。
ピアース・ブロスナンはNCSCの長官アーサー・スティーグリッツを演じる。その役どころは言ってしまえば「往年の輝きを失ったジェームズ・ボンドっぽい男」。現実にボンドを4作品演じた本人がそのパロディのような人物を憎らしいほど愛嬌たっぷりに演じるという重層的な面白さがある。加えてナオミ・ハリスはダニエル・クレイグ版ボンドシリーズで相棒のマネーペニーを演じた人物。ボンドを演じた男と、ボンドの相棒を演じた女が同じ諜報世界に揃うという、ファンにはたまらない偶然の符合だ。
Under The Film:
ひとりで三役をこなす映画屋は両親への敬意を忘れない
映画製作は通常、監督・撮影監督・編集それぞれに専門職を置く。それが業界の常識だ。しかしスティーヴン・ソダーバーグはこの三役を一人でこなすことで知られ、2000年の『トラフィック』以降のすべての作品でその体制を維持している。
面白いのは、クレジットの表記だ。撮影監督としては「ピーター・アンドリュース」、編集者としては「メアリー・アン・バーナード」という別名義で登場するが、これは両親の名前に由来する偽名で、両親への敬意が込められている。
ソダーバーグの撮影哲学の核心は「照明機材をトラックから降ろさない」こと——つまり大がかりな照明セットに頼らず、空間そのものの光を活かして撮ることだ。本作でもプロダクション・デザイナーのフィリップ・メッシーナとともに、ロンドンのタウンハウスという空間自体に光を宿らせた。iPhoneで映画を撮ったこともある実験的精神に富むソダーバーグ。撮影開始は2024年5月7日、完成版を観たのは同年6月23日。わずか7週間での撮影・編集完了は、この映画屋のプロとしての凄みを感じさせる。
ダンヒルがロンドンをクールに蘇らせる
コスチューム・デザインを担当したエレン・ミロジニックは、ノーラン監督の『オッペンハイマー』でも衣装を手掛けた実力者だ。彼女は英国の老舗ラグジュアリー・ブランド「ダンヒル」のクリエイティブ・ディレクター、サイモン・ホロウェイと緊密に連携し、ファスベンダー、バーク、ペイジ、ブロスナンのワードローブを丁寧に仕立て上げた。これはプロダクション・デザインとともに、ロンドンを「クールな都市」として再生させるという意図的な試みの一環だった。
音楽もスパイである デヴィッド・ホームズのジャズとカメオ出演
本作のスコアを担当したのは、ソダーバーグ作品に長年寄り添ってきた作曲家デヴィッド・ホームズ。そして彼は映画冒頭のクラブシーンにDJとしてカメオ出演している。ジャジーなスコアは、物語の乾いたトーンとクールなムードを同時に体現する。誰かが嘘をついているように、音楽もまた真実と虚構の境界で鳴り渡る。
96%絶賛でも、映画館に人が来なかった現実
映画レビューサイト「ロッテン・トマト」での支持率は96%、映画評論家たちからは「大人のための模範的なスパイ映画」と称賛された本作だが、全世界興行収入は4,340万ドルと、製作費5,000〜6,000万ドルを下回る結果に終わった。批評家に愛されたが大衆が映画館に足を運ばなかった。その構図は、まさにソダーバーグ自身が「絶滅危惧種」と呼ぶ「大人のための中規模映画」の現在地を示している。
それでもソダーバーグは嘆かない。本作の撮影中にすでに次回作のロンドン撮影に入っていた。前を向いて映画を作り続けることが、この映画屋の唯一の答えだ。
『Black Bag /ブラックバッグ』(2025年・アメリカ・1時間34分)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ. 脚本・製作総指揮:デヴィッド・コープ
出演:マイケル・ファスベンダー、ケイト・ブランシェット、マリサ・アベラ、トム・バーク、ナオミ・ハリス、
レゲ=ジャン・ペイジ、ピアース・ブロスナン、グスタフ・スカルスガルド. © 2025 Focus Features, LLC. All Rights Reserved.

