
92分間、カメラは一度も止まらない。ワンショット・ノーカットという前代未聞の狂気と覚悟が生む緊張感『Boiling Point/ボイリング・ポイント|沸騰』
舞台はクリスマス直前のロンドン、満席のレストランキッチン。
食品衛生検査で評価を落とした夜、崩壊寸前のヘッドシェフが過ごす地獄の一夜をリアルタイムで追う。
脚本家ジェイムズ・カミングスと、俳優出身の監督フィリップ・バランティーニが、長年の盟友スティーヴン・グレアムとともに完全ノーカット・ワンショットで撮り上げたイギリス映画界が生んだ一発勝負の傑作。

© 2021 Matriarch Productions Ltd.
Story:
クリスマス直前のロンドン。繁華街のレストラン「ハロルズ」のヘッドシェフ、アンディ・ジョーンズ(スティーヴン・グレアム)は、その日の夜が始まる前から追い詰められていた。食品衛生検査官による抜き打ち検査で厨房の問題を指摘され、衛生評価を落としたばかり。それでも店には予約客が次々と詰めかけ、満席の一夜が幕を開ける。厨房の副料理長カーリー(ヴィネット・ロビンソン)は、揺らぐアンディを支えながらも、自身の限界を静かに抱えている。ホールスタッフは人種差別的な態度をとるテーブル客への対応に翻弄され、厨房では経験の浅いスタッフがミスを重ねていく。追い打ちをかけるように、かつての同僚で今は著名なフードライターとなったアリステア(ジェイソン・フレミング)が、インフルエンサーの女性連れで突然来店する。アレルギーをめぐる危険な見落とし、スタッフたちの個人的な事情、アンディの隠れた問題が次々と表面化し、一夜は加速度的に、そして静かに、沸点へと近づいていく。
Behind The Inside:
短編という名の試作品から生まれた長編
フィリップ・バランティーニ監督とスティーヴン・グレアムは、長編映画の前にすでに同じタイトルの短編映画『Boiling Point』(2019年)を共に作り上げていた。その短編もまたワンショットで撮影されており、いわば長編版への壮大な実験であり、原型であった。短編での手応えが確信へと変わり、もっと深く、もっと長く、この閉じた空間の中で人間を描けるはずだという思いが長編映画化への決断を促した。監督と俳優がすでに同じ手法、同じキャラクターの骨格を共有していたことは、数ヶ月に及ぶリハーサルの土台として決定的に重要だったといえる。
グレアムにとっての「アンディ」、そして妻との共演
スティーヴン・グレアムは、アンディ・ジョーンズというキャラクターを「弱くて愛すべき、しかし自分の問題から逃げ続けている男」として捉え、長い時間をかけて内側から積み上げていった。脚本家ジェイムズ・カミングスとバランティーニ監督が作り上げたアンディは、単純な善悪では語れない人間。能力はあるが不安定で人を愛しているが傷つけてしまう。グレアム自身の俳優としての厚みが、この人物に説得力を与えている。
さらに特筆すべきは、グレアムの実生活での妻であるハンナ・ウォルターズが、劇中でも彼の妻エミリーを演じている点。劇中で挿入されるアンディとエミリーの電話でのやり取りは、台詞だけ聞けば日常的だが、その言葉の裏に積み重なった歳月と哀感入り混じった感情は本物の夫婦だからこそ醸し出せる。グレアムはこの役で英国アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、自身のキャリアにおける代表作のひとつとなった。
ヴィネット・ロビンソン、本作のもう一人の主役
副料理長カーリーを演じたヴィネット・ロビンソンは、グレアムと対をなすもうひとりの中心人物。アンディが外側に向かって崩れていくとすれば、カーリーは内側に向かって静かに限界を迎えていく。ノーカットという手法の中で、彼女が見せる感情の変化は段階的で繊細であり、カットを重ねる通常の映画ではその変化は感じ取り辛かったであろう「蓄積される消耗」がそのまま画面に刻まれている。ロビンソンはこの演技で英国インディペンデント映画賞助演女優賞を受賞しており、本作の評価の多くが彼女のパフォーマンスに依拠していることは疑いようがない。
Under The Film:
「居合わせている」感覚という強烈な手法
本作最大の特徴であり、すべての話題の中心は「92分間ノーカット・ワンショット」という撮影手法である。ここで「ワンショット」について少し説明しておくと、通常の映画は、様々な角度から撮影した映像を編集でつなぎ合わせて完成する。俳優は同じシーンを何十回も繰り返し演じ、編集でベストテイクをつなぎ合わせるのが前提なので、俳優は「完璧な感情の瞬間」を切り取ることに集中できる。疲れたら休めるし、感情が乗らなければやり直せる。つまり通常の映画とは、現実の時間の流れを一度バラバラに解体して、再構築するもの。しかし本作では、カメラは一台、始まりから終わりまで一切止まらず、編集による誤魔化しもフォローも存在しない。俳優もスタッフも、誰かがミスをしてもやり直しは利かない。時間は流れ続け、感情は蓄積され、疲労は本物になる。アンディが92分かけて追い詰められていくとき、グレアム自身も92分間、実際に追い詰められていく。ワンショットにすることで、観客は厨房に紛れ込んだ目撃者となり「見せられている」感覚が「居合わせている」感覚に変わる、これがこの手法の最大の効果である。アルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』や、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン』(2014年)も長回しや疑似ワンショットとして知られているが、VFXや編集によって継ぎ目を消したものであり、本作はその誤魔化しがまったくない、純粋な一発勝負となる。その違いは非常に大きい。撮影が上手くいけば、そう簡単には叶うことがないことが実現した時に賞賛される”聖杯”に喩えられるほど。まさにギネス世界記録レベルの偉業なのだ。
では通常の作法で撮ったらどうなるか?
おそらく優れたリアリズム映画にはなったであろう。名匠ケン・ローチやジャック・オーディアールが描くような、社会的リアリティを持つ労働者の映画として成立したに違いない。ただし、タイトルの『ボイリング・ポイント|沸騰』の意味は成さなくなる。
数ヶ月のリハーサル、そして撮影当日に抽出された「2テイク」
フィリップ・バランティーニ監督と撮影監督マシュー・ルイスは、俳優・スタッフ合わせて数十名のチームとともに、数ヶ月にわたるリハーサルを積み重ねた。撮影当日は本番2テイクが敢行され、完成版として使用されたのは2テイク目。前日のリハーサルでは「このまま本番にできる」とチーム全員が確信したほどの完成度に達していたと伝えられており、その積み上げがあったからこそ本番のテイクに揺るぎない密度が宿った。
ロンドン、ダルストンの実在するレストランで
撮影場所は、ロンドン東部ハックニーのダルストンに実在するレストラン「Jones & Sons」。劇中の架空のレストラン「ハロルズ」として使用された実際の厨房、ホール、バーカウンターがそのままロケ地として活用された。閉じた空間の中にカメラが入り込み、俳優と料理スタッフが入り乱れながら動き続けるこの撮影は、テレビの生放送に近い緊張感を現場に生み出し、俳優たちはリハーサルを通じて空間を身体に叩き込み、互いの動線を精密に把握することで、偶発的に見えながらも実は精巧に設計された動きを体現している。その緊張感が、加工されることなくそのまま画面のリアリティへと直結しているのが本作の圧倒的な強みなのだ。
演者でもある監督フィリップ・バランティーニだからこそ可能だった
『ゲーム・オブ・スローンズ』への出演経験もあるバランティーニ監督は俳優としてのキャリアも持っており、演じる側の経験を持つ監督として、俳優が何を必要としているかを肌感覚で理解している。そしてグレアムとの長年の信頼関係が、ノーカットという極限のチャレンジを可能にした土台だったといえます。
第三の体験様式
バランティーニ監督が本質的に問いかけているのは、「映画は現実の代替品なのか、それとも現実そのものになれるのか」という問い。通常の映画は現実を「解釈して見せる」メディアだが、ワンショットはその解釈を極限まで削って、体験の密度だけを残そうとする試みであり、俯瞰も接近もできるカメラの自由と、カットを割らないという縛りを同時に持つことで、ワンショット映画は演劇でも通常の映画でもない、第三の体験様式を生み出していると言えるのかもしれない。
Awards:
- 英国インディペンデント映画賞:助演女優賞・ヴィネット・ロビンソン
『Boiling Point/ボイリング・ポイント|沸騰』(2021年・イギリス・1時間32分)
監督: フィリップ・バランティーニ
出演: スティーヴン・グレアム、ヴィネット・ロビンソン、アリス・フォード、ハンナ・ウォルターズ、レイ・パンサキ、 ローデス・ファベレス、マラカイ・カービー、ジェイソン・フレミング、ゲイリー・ラモント
© 2021 Matriarch Productions Ltd.

