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死と向き合うケアの現場が、二つの魂を結びつける 濱口竜介、初のフランス語映画で問う「人間の尊厳」とは何か──第79回カンヌ国際映画祭コンペティション選出作品『急に具合が悪くなる』

アカデミー賞・国際長編映画賞を制した『ドライブ・マイ・カー』(2021年)から4年。濱口竜介監督の最新作

主演は、ポール・バーホーベン監督作品『ベネデッタ』(2021年)で世界的評価を確立したベルギー出身の名女優ヴィルジニー・エフィラ。相手役を務めるのは岡本多緒(『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013年))。エフィラはこの役のために日本語を習得した。

原作は、哲学者の宮野真生子と医療人類学者の磯野真穂が、末期乳癌を患う宮野の残された時間の中で紡ぎ合った実在の書簡集『急に具合が悪くなる』。共同脚本はレア・ル・ディムナと濱口竜介。

2026年5月15日、第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でワールドプレミア。上映時間3時間16分。パルム・ドール最有力候補として、世界の映画批評家が首を長くして待つ一本。

© Cinefrance Studios / Office Shirous / Bitters End / Heimatfilm / Tarantula

Story:

パリ郊外に位置するケア施設「自由の庭(Le Jardin de la Liberté)」。その施設長マリー=ルー・フォンテーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)は、慢性的な人手不足とスタッフたちの無理解に苦しみながらも、すべての入居者の尊厳を守るケアを実践しようと日々格闘している。

彼女が施設に導入しようとするのは「ユマニチュード(Humanitude)」という革新的なケア哲学──人間の尊厳を介護の根幹に据え、視線・言葉・触れる手・そして「立つ」という四つの柱を通じて介護者と被介護者が対等につながることを目指す方法論だ。しかし、長年の現場の慣習は根強く、施設という組織の硬直性は容易には崩れない。

そこへ現れる一人の日本人女性──末期症状を抱えた劇作家、森崎マリ(岡本多緒)。異なる言葉、異なる文化を生きてきた二人の女性の出会いは、ケアという行為の本質を問い直し、マリー=ルーの人生そのものを変容させてゆく。やがてその施設は、ここにいていい、と誰もが感じられる場所へと変わっていく。


Behind The Inside:

渋谷の喫茶店から生まれたフランス映画

プロジェクトの起点は、2022年の東京・渋谷にある。パリを拠点とする映画会社シネフランス・スタジオのプロデューサー、ダヴィッド・ゴーキェが、喫茶店で濱口と偶然に相席となりフランス映画について語り合ったのが最初の出会いだったという。

濱口はかねてよりフランス映画を「自分の映画観の核にある」存在として仰ぎ見てきた監督だ。「必死にフランス語を習得しようとしている」とも公言しており、その傾倒は単なる影響という次元を超え、作家としてのアイデンティティ形成に直結するものとして語られてきた。まるで濱口作品の『偶然と想像』の世界を地で行くかのような、ゴーキェとの渋谷の偶然が、この映画の出発点となった。

濱口はその後2年間かけてプロジェクトを構想し、フランスへの渡航を重ねながら現地のフランス人俳優たちとワークショップを開催し、彼らの演技を間近で観察することで、言語の違いを越えた自身の演出術の射程を確かめていった。

哲学者と人類学者が死を前に綴り合った書簡

映画の原案となったのは、宮野真生子(哲学者)と磯野真穂(医療人類学者)が実際にやり取りした書簡をまとめた書籍『急に具合が悪くなる』(2019年)だ。宮野が転移性乳癌と診断されて余命わずかとなった時期に書き交わされたこれらの手紙は、生・病・死・そして二人の間に育まれた深い絆を綴るものだった。宮野は本書の前書きを書き終えた直後に意識を失い、15日後に逝去した。

濱口は『ドライブ・マイ・カー』の公開後、多数の映画企画のオファーを受けたと明かしている。その中でこのプロジェクトだけが彼の心を動かした。「二人の女性の間に交わされた言葉の数々に深く動かされた」という。原著から映画への移行にあたって、物語の舞台は日本からパリへと置き換えられているが、書簡に込められた死と向き合うことの哲学的重みは、映画の核に忠実に引き継がれている。

エフィラが日本語を習得し、岡本多緒がパリへ

ヴィルジニー・エフィラはベルギー出身の女優であり、現在フランス映画を代表するトップ俳優の一人だ。『ベネデッタ』(2021年)でバーホーベン監督のもと奇跡の修道女を演じ、その後も数多くのフランス映画に出演してカンヌ常連の顔となっている。

今回、エフィラはマリー=ルー役への準備として日本語を習得した。2025年秋のマラケシュ映画祭での登壇時に彼女は本作について「演出の次元で驚くべき決断がなされている」と表現し、大まかな上映時間として約3時間の大作になることを示唆していた。

岡本多緒はジェームズ・マンゴールド監督の『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013年)でヒロインのマリコ役を演じ国際的なキャリアを築いた日本人女優。ザック・スナイダー監督の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)にも出演している。本作では末期症状の劇作家という難役に挑んでいる。

ユマニチュードとは──フランス生まれ、日本に渡ったケア哲学

「ユマニチュード」はイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティが開発したフランス発祥のケア哲学だ。「視線」「言葉」「触れること」「立つこと」を四つの柱に据え、認知症患者や寝たきりの入居者との間に対等な人間的つながりを築くことを目指す。フランスで生まれたこの手法は日本にも輸出され、現在複数の医療・介護施設で実践されている。

濱口はこの手法の持つ特異な越境性に着目した。「フランスで生まれ、日本へ渡り、そこで実践されている方法論。それは人間的なケアを軸に二つの文化を結びつける橋となれる」。ケアの現場を舞台にしながら、日仏の文化的架け橋というモチーフを映画の構造そのものに埋め込んだのは、この発見からだった。


濱口竜介監督最新作『急に具合が悪くなる』公式サイト

映画『急に具合が悪くなる』公式サイト。濱口竜介監督最新作 出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代 原作:『急に具合が悪くなる』(宮野真生子・磯野真穂著/晶文社)2026年6月19日(金)公開


Under The Film:

カンヌ2026最大の注目作──なぜ世界の批評家はこの映画だけを特別視するのか

第79回カンヌ国際映画祭(2026年5月12日〜23日)のコンペティション部門には、アスガー・ファルハディ、ペドロ・アルモドバル、パベウ・パブリコフスキ、是枝裕和、ラースロー・ネメシュ、ナ・ホンジン、深田晃司ら錚々たる名前が並ぶ。それでもなお、映画批評メディアの大半が「最も待ち望んでいる一本」として名指しするのが本作だ。

英映画批評サイト「The Film Stage」が発表した2026年最も期待する映画100本の第1位、欧州映画ニュースサイト「High On Films」の2026年カンヌ期待作リストでも筆頭に挙がる。「数年のうちに、濱口竜介はベルリン、カンヌ、ヴェネチアで主要賞を独占した類まれな監督となった」(High On Films)。欧州映画専門メディアCineuropaは「これは時代を定義する映画作家の帰還だ」と称している。

フランスの配給会社ディアファナのミシェル・サン=ジャンは「濱口は現代最高の映画監督の一人。彼の作品はどれも固有の世界を持ち、そのキャリアに重要な新たな層を加え続けている」とコメント。その評価はすでに、世界の映画史の新たな1ページを予感させる。

3時間16分という映画的賭け

上映時間は196分(3時間16分)。今年のカンヌ・コンペティション部門参加作品の中で最長の作品となることが確実視されている。ヴィルジニー・エフィラはマラケシュ映画祭では「約3時間」と示唆していたが、映画ジャーナリスト、アレクサンドル・ジャノヴィアクが仏映画サイトEcran Largeで公式上映時間を報じ、現地では「覚悟して臨め」という声とともに「ハマグチが好きなら至福の時間だ」という声が交錯した。

濱口映画はその長尺によって知られる。5時間を超える『ハッピーアワー』(2015)から始まり、3時間の『ドライブ・マイ・カー』でオスカーを獲得した。時間の長さは単なる野心ではなく、人物と言葉が関係を築くのに必要な「息継ぎ」の確保であり、彼の映画においてはそれ自体が演出の核をなしている。

3時間もの長尺にも関わらず、世界各国への販売がカンヌ上映前にほぼ完了しているという、現代の映画市場では極めて例外的な事態が起きている。

日仏合作という映画の政治学──”外国語映画”という枠を超えて

本作はフランス・日本・ドイツ・ベルギーの4カ国共同制作。日本人監督がフランスを主要ロケ地としてフランス語でフランス人女優を撮る。しかし濱口にとって、この映画はフランス映画の「模倣」でも「実験」でもない。

フランス映画が育んできた人間観察の伝統──ジャック・リヴェット的な時間の積み重ね、エリック・ロメールの言語への信頼──を骨格として内面化した上で、病床にある人間の尊厳という普遍的な問いに挑んでいる。ユマニチュードがフランスから日本へ渡ったように、濱口もまた日本からフランスへ渡った。この映画はその往還の中でしか生まれ得なかった。

スクリーンには、濱口が一貫して問い続けてきたもの── 死と言語と、触れること──が映し出されることになる。5月15日、そのことが世界の映画ファンによって確かめられた。

上映後、風物詩もとも言える米・ヴァラエティ誌による恒例の計測では7分間のスタンディング・オベーションとされ、米・Deadline誌は、その約1.4倍の11分、会場にいた観客は、そうそう起こらない14分と言う者も出ていたが、現時点では今年のカンヌ最長のスタンディング・オベーションとなった。

ヴァラエティ誌は「二人の女性が3時間15分話し続ける。濱口はそこから、世界をより優しい場所に感じさせる超越的な映画を生み出した」と絶賛し、FirstShowing.netは「感情的に揺さぶられた。これほど傑出した映画はかつて見たことがない」と10点満点を与えている。

今年のカンヌ映画祭は、まだ道なかば、今後の上映作品によって、状況は変わるのかもしれないが、現時点ではパルム最有力候補という流れは確実に出来てきている。


『急に具合が悪くなる』(Soudain / All of a Sudden、2026年・フランス/日本/ドイツ/ベルギー・3時間16分)
監督:濱口竜介 出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、ガブリエル・ダマニ、長塚京三、黒崎コダイ、マリー・ビュネル、ジャン=シャルル・クリシェ
© Cinefrance Studios / Office Shirous / Bitters End / Heimatfilm / Tarantula


濱口竜介監督最新作『急に具合が悪くなる』公式サイト

映画『急に具合が悪くなる』公式サイト。濱口竜介監督最新作 出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代 原作:『急に具合が悪くなる』(宮野真生子・磯野真穂著/晶文社)2026年6月19日(金)公開


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