
9歳の少女が「独裁の証」にケーキを焼く――カンヌ2冠の衝撃『大統領のケーキ』
フセイン独裁政権下のイラクで、9歳の少女が課された”大統領の誕生日ケーキ”。
カンヌ2冠、アカデミー賞ショートリスト入りを果たしたイラク映画史上の快挙が、7月10日ついに日本上陸。

Story:
1990年代、サダム・フセイン独裁政権下のイラク。祖母ビビと二人、湿地帯の集落で暮らす9歳の少女ラミアは、学校のくじ引きで「大統領のケーキ係」に選ばれてしまう。大統領誕生日のお祝いケーキを用意するという役目は、名誉どころか、経済制裁下で砂糖も小麦粉も卵もろくに手に入らない家庭には、脅迫に等しい。翌朝、祖母に連れられ、父の形見の時計と親友の雄鶏ヒンディと共に町へ出かけたラミアは、そこで祖母の本当の目的が自分を養子に出すことだったと知ってしまう。逃げ出した彼女は、自らの手でケーキの材料を集めれば祖母との暮らしを続けられると信じ、クラスメイトのサイードと共に、乏しい知恵と想像力だけを頼りに町を駆け回る。
Behind The Inside:
独裁と儀礼:「くじ引き」という公平を装った残酷さ
本作の核にあるのは、フセイン政権が全国のすべての学校に義務付けていたという、大統領誕生日を祝うケーキ作りの儀式だ。しかも、その係を「くじ引き」という一見公平な手続きで決めるという構造が、この制度の悪質さを際立たせる。誰か特定の家庭が狙い撃ちされるわけではなく、運が悪ければ誰にでも降りかかる ―― この「平等に降りかかる恐怖」こそが、全体主義の統治技術の一つだ。逃れる術のない偶然性によって、国民全員に体制への服従を内面化させる。ラミアの担任教師(元軍人という設定)が彼女に「おめでとう。誇りに思いたまえ」と告げる場面は、恐怖と儀礼上の祝福が分かちがたく結びついた、独裁国家特有のダブルスピークを凝縮している。
子供の視点というフィルター
監督のハサン・ハーディは、主要キャストのほとんどを素人から起用している。ラミア役のバニーン・アハマド・ナーイフについては、撮影開始直前になってようやくキャスティングアシスタントが見つけてきた逸材だったという。この選択は演出上の効果に留まらない。全体主義的な恐怖を言葉で説明しがちな脚本を、子供の無防備な表情がそのまま引き受けてしまう ―― 批評でもこの点は繰り返し評価されており、ロッテントマトでは81件の批評家レビュー中99%が肯定的、平均10点満点中8点という高評価に結実している。物語自体もハーディ監督自身の少年期の実体験がベースになっており、彼はこの題材について「古傷を癒すためのもの」として映画を位置づけているという発言も残している。
日本から見た「考えられないリアル」
作中で描かれる日常は、平和な社会に暮らす者から見ると、ほとんど想像を絶する。経済制裁下で棚から砂糖・小麦粉・卵が消え、日々の食卓すら満足に整わない中で「大統領の誕生日ケーキ」だけは絶対に用意しなければならないという矛盾。頭上を戦闘機が飛び交い、負傷兵が普通に町を歩いていても、子供たちがほとんど反応を示さないほど、暴力が日常に溶け込んでいるという事実。祖母が孫の失踪を届け出ても、警察が意にも介さず取り合わないという、統治機構そのものの機能不全。そして何より、学校の教室の壁だけでなく、荒んだ街道にまで独裁者の肖像画が置かれているという、生活空間そのものが権力の顔で覆われている風景。これらは「字面でしか知らなかった」ことが、映像として立ち上がってくる強度を持っている。
Under The Film:
なぜアメリカ資本が入っているのか
本作はイラク・アメリカ・カタールの国際共同製作で、しかもエグゼクティブプロデューサーには脚本家エリック・ロス(『フォレスト・ガンプ』)や、なんと『ホーム・アローン』『ハリー・ポッター』のクリス・コロンバス監督まで名を連ねている。この経緯は、ハーディ監督がニューヨーク大学ティッシュ映画学科出身であることに遡る。2022年のサンダンス・インスティテュートの脚本・監督ラボに参加した際にロスとマリエル・ヘラー監督と出会い、二人が本作の支持者になった。撮影が可能な乾季(11月〜4月)を逃せば半年以上の延期を強いられるという制作上の危機に直面した際、サンダンス関係者の仲介でコロンバスの製作会社が加わり、日程を死守したという。
ハーディ監督は、資金と引き換えにヨルダンやモロッコといった「撮影しやすい国」を提示されても拒否し、「この映画のDNAはイラクにある」と押し通したと語っている。現在は拠点をニューヨークに置きながら(バグダッドとも行き来しているとされる)、アメリカで得た技術と人脈を携えて、必ず祖国イラクに戻って撮るという生き方を選んでいる。これは資金調達の都合というより、「自らのアイデンティティの真正性は祖国でしか担保できない」という信念に基づく往還であり、紛争・独裁を経た国出身の映画作家に広く見られる構造でもある。
世界での評価と受賞歴
カンヌ国際映画祭監督週間で、イラク映画史上初となるカメラ・ドール(新人監督賞)と観客賞のダブル受賞。第98回アカデミー賞国際長編映画部門ではイラク代表に選出され、ショートリスト入りも果たした。Metacriticでは17件の批評家レビューに基づき84点の「絶賛」評価。日本の劇場公開に先駆けて行われた試写でも、Filmarksでは平均3.9点(120件のレビュー)と高評価を得ている。
焼き上がったケーキの向こう側
一つのケーキを巡る9歳の少女の物語は、それを撮った監督自身の生き方とも静かに響き合っている。ニューヨークで学び、ハリウッドの人脈を得ながらも、撮影となれば必ずイラクに戻る ―― ハーディの往還は、亡命でも同化でもない、第三の生存戦略だ。奇しくもこの脚本・監督ラボで彼に助言を与えた一人には、祖国に戻れば投獄のリスクを背負いながらそれでも撮り続けるジャファル・パナヒの名も挙がっている。師と弟子、それぞれの時代と立場で選んだ「祖国で撮ること」の意味の違いは、本作がヒットした先に、改めて掘り下げる価値のあるテーマになるはずだ。
7月10日、日本では、この一切れのケーキがどんな味がするのか?
『大統領のケーキ』(2025年・イラク/アメリカ/カタール・1時間45分)
監督:ハサン・ハーディ
出演:バニーン・アハマド・ナーイフ、ワヒーダ・サーベト、サッジャード・モハンマド・カーセム、ラヒーム・アルハジ
日本公開:2026年7月10日(配給:松竹)
新宿ピカデリーほか全国公開
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