
『愛しのゴースト』のメー・ナークが、今度は掃除機に取り憑く。カンヌ批評家週間でタイ映画史上初のグランプリを受賞した『ユースフル・ゴースト』は、『ゴースト/ニューヨークの幻』の顔をした政治寓話である。
タイの国民的怪談「メー・ナーク」を2013年に演じ、タイ映画史上屈指の大ヒットを記録したダビカ・ホーンが、今度は掃除機に宿る幽霊を演じる。
粉じん公害で死んだ妻が、家電に憑依して夫のもとへ戻ってくる——だがこの映画が本当に描くのは、タイが消し去ろうとしてきた記憶の物語だ。
「トロイの木馬」とラッチャプーム・ブンバンチャーチョーク監督が呼ぶ仕掛け。掃除機とのラブコメを期待した観客は、上映後には国家権力と歴史修正主義について語り合うことになる。

©2025 185 FILMS, HAUT LES MAINS, MOMO FILM CO.
Story:
粉じん公害が深刻化するタイ・バンコク。最愛の妻ナット(ダビカ・ホーン)を呼吸器疾患で亡くしたマーチ(ウィットサルート・ヒンマラート)は、悲嘆に暮れる日々を送っていた。
ある日、ナットの魂が一台の掃除機に宿って舞い戻る。ふたりは戸惑いながらも愛を確かめ合うが、マーチの家族が経営する家電工場は、死亡した従業員の亡霊に取り憑かれて操業停止に追い込まれていた。人間にも、そして幽霊たちのコミュニティからも歓迎されないナットは、工場の除霊に協力することで、自分が「役に立つ幽霊」であることを証明しようとする——。
Behind The Inside:
メー・ナークを演じた人気女優が、再びゴースト・ワイフを演じる
ダビカ・ホーンは2013年、タイ映画史上屈指の興行収入(10億バーツ超)を記録した『愛しのゴースト』で、夫の死後も現世にとどまり続けた妻の霊「メー・ナーク」を演じ、一躍トップスターとなった女優だ。
『ユースフル・ゴースト』が着想を得たのも、同じ19世紀タイの怪談「プラカノーンのメー・ナーク」である。人間と非人間の恋愛譚——蛇が化けた女性や、虎が化けた男性など——はタイの説話に繰り返し現れるモチーフであり、監督のラッチャプーム・ブンバンチャーチョークいわく、これらの物語の結末では決まって社会がふたりを一緒にいさせてくれない。
ダビカのキャスティングは最初から決まったものではなかった。監督が2021年のレジデンシー・プログラムで師事したペンエーグ・ラッタナルアーン監督が、Netflixシリーズ『6IXTYNIN9 シックスティナイン ザ・シリーズ』で主演していたダビカにこの脚本の話をしたのがきっかけだったという。商業作品を数多くこなしてきたダビカにとって、掃除機に宿る幽霊という難役は、女優としての新たな挑戦になった。
同じ怪談、同じ女優、しかし14年の時を経て「憑依先」は人間の姿から家電製品へと変わった。この配役自体が、本作を読み解く最初の鍵になっている。
タイトルの「役に立つ」が意味する、もうひとつのレイヤー
英題「A Useful Ghost」は、単なる設定説明ではない。監督自身が育つ過程で聞かされてきたという、タイのある種の決まり文句に由来する。クィアの子を持つ親が、子どもに向けてこう告げる——「好きに生きていい、ただし社会の役に立つ人間でいなさい」、と。
監督はゲイであることを公言しており、本作にはクィアのカップルが政治的な行動を担う存在として登場する。「LGBTQ+が苦しむ物語」の型を避け、ロマンスでもカミングアウト譚でもない役割を彼らに与えたと監督は語っている。ナットとマーチの人間/幽霊(家電)というカップルの形も、監督は「クィア的な関係性」になぞらえる。タイの説話における人間と非人間の恋が社会から阻まれる構造は、性的少数者のカップルが置かれる状況と重なる、という見立てだ。
制作陣に監督が繰り返し伝えたコンセプトは「エレガントに倒錯していて、倒錯的にエレガントであること」。表面は上品でありながら、その下には遊び心と反抗心を隠し持つ——という設計思想だ。
粉じんが覆い隠すもの——1932年革命とデモクラシー・モニュメント
本作の政治的な芯にあるのは、タイの近代史における「消された記憶」だ。
監督が脚本を書き始めたのは2017年、2014年のクーデターから3年後だった。物語冒頭のクレジットに映る彫像は、1932年の立憲革命(絶対王政から立憲君主制への移行)を記念してバンコクに建てられた民主記念塔(デモクラシー・モニュメント)である。監督が着想源として繰り返し挙げるのは、この革命を主導した人民党(カナ・ラーサドン)に由来する建築や像が、近年になって撤去・破壊されてきたという事実だ。監督はこれを、権威側が都合の悪い過去を消去する行為だと捉えている。
劇中で深刻化していく粉じん公害は、単なる社会問題の記号ではない。都市開発や工場労働という「進歩」の名のもとに、瓦礫と化した人々——文字通り粉塵となった過去——を可視化する装置として機能している。
タイ映画は伝統的に「幽霊は復讐する」という文法を持つ。監督はこれを転倒させ、幽霊たちに個人的な怨恨ではなく集団としての異議申し立てを担わせた。物語が進むにつれ、幽霊たちは労働、国家暴力、歴史的記憶をめぐる存在として姿を変えていく。
「トロイの木馬」——ジャンルへの期待を裏切る設計
監督自身がインタビューで用いた表現が「トロイの木馬」だ。掃除機とのセックスコメディを期待して劇場に入った観客が、上映後には政治犯について語り合っている——そうした体験を意図的に作っているのだという。
この構造は、日本の観客が本作を『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)と比較したくなる理由でもある。暴漢に殺された恋人が幽霊となって寄り添い、霊媒師の力を借りて生者を守る——ジャンルの上澄みだけを見れば、確かに「死んだ配偶者が霊として舞い戻るロマンティック・ファンタジー」という共通の型に収まる。掃除機とパトリック・スウェイジ、という違いに見えてもおかしくない。
だが『ゴースト』が純愛とサスペンスに徹底して奉仕する脚本だったのに対し、『ユースフル・ゴースト』はロマンス・コメディ・ホラー・SF・政治風刺を横断しながら、途中で観客の座標を丸ごとずらしにかかる。ラブストーリーとしての体裁は「トロイの木馬」の木馬部分に過ぎず、中に隠されているのは「国家がいかに都合よく過去を編集するか」という問いだ。
この「ジャンル映画のふりをした政治映画」という構造自体、タイのように政治的発言が制約されやすい環境で、寓話や大衆娯楽の形を借りて批評を届けてきた東南アジア映画の系譜——アピチャッポン・ウィーラセタクンらに連なる手法——を踏襲しているとも読める。
Under The Film:
カンヌ批評家週間、タイ映画史上初のグランプリ
『ユースフル・ゴースト』は2025年5月、第78回カンヌ国際映画祭の批評家週間でワールドプレミアを迎え、同部門におけるタイ映画としては史上初の選出でありながらグランプリを受賞した。2010年、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『ブンミおじさんの森』がタイ映画として初めてパルム・ドールを受賞してから15年。批評家週間という別部門ではあるが、タイ映画が再びカンヌの主要な賞に手をかけた出来事として現地でも大きく報じられた。
ロッテントマトでは批評家スコア87%(45件中)。トロント国際映画祭での北米プレミアを経て、タイは本作を第98回アカデミー賞国際長編映画賞のタイ代表に選出したが、製作会社側の提出手続き上の不備により、最終的に候補から外れるという経緯もあった。
次のヨルゴス・ランティモス——ラッチャプーム・ブンバンチャーチョークという異能
1987年バンコク生まれ、チュラーロンコーン大学で映画を学んだラッチャプームは、トランスジェンダーの性風俗従事者を主人公にした短編『赤いアニンシー; あるいはいまだに揺れるベルリンの壁をつま先で歩く / Red Aninsri; Or, Tiptoeing on the Still Trembling Berlin Wall』(2020年ロカルノ映画祭ユース審査員賞)で頭角を現した新鋭だ。本作は2017年に着想、2020年に初稿完成、2023年の撮影を経て2025年の完成に至るまで、実に8年をかけたデビュー長編である。LAタイムズは彼を「次のヨルゴス・ランティモス」と評した。
『ユースフル・ゴースト』 (2025年・タイ・フランス・シンガポール・ドイツ・2時間10分 )
監督・脚本:ラッチャプーム・ブンバンチャーチョーク
出演:ダビカ・ホーン、ウィットサルート・ヒンマラート、アパシリ・ニティポン、ワンロップ・ルングクムジャド、
ウィットサルート・ヒンマラート
配給・宣伝:SUNDAE(Powered by Filmarks)
日本公開:2026年7月10日(金)新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
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