
清原惟『A Window of Memories』論——ベルリン映画祭常連作家が「聞き書き」映画でドキュメンタリーを螺旋に描く
『わたしたちの家』(2017)、『すべての夜を思いだす』(2022)と、ベルリン国際映画祭フォーラム部門に2作連続で選出されてきた清原惟監督。
海外の映画批評メディアからは、その繊細な脚本と謎を宙吊りにしたまま終える大胆さによって、デビュー作の時点で日本インディーズ映画の最前線に立った作家だと評されてきた作家である。
その清原が、初めて「ドキュメンタリー的手法」に踏み出した最新作が『A Window of Memories』だ。8月7日(金)よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国で順次公開される。

本作は、監督が自身の母方・父方それぞれの祖母から聞き取った人生の話を、祖母たちと一緒にテキストへと起こし、それを二人の俳優(小山薫子、坂藤加菜)が朗読していくという構成をとる。予告編では、祖母たち本人(砂子旭子、清原磋智子)の生活の記録映像と、俳優が朗読する映像とが交互に編集されており、語りの主体と語る声とが画面上で分離しながらも並置される構造になっている。家族、戦争、仕事、結婚、飼い犬、友人といった生活史の断片が、この二重の映像を通じて語り直されていく。山形国際ドキュメンタリー映画祭2025ではインターナショナル・コンペティション部門に選出された。
「劇映画作家が初めて撮ったドキュメンタリー」という紹介のされ方は簡単だが、それだけでは本作の射程を見誤る。清原がなぜ今、なぜこの手法で「聞き書き」に向かったのか。そして、俳優が本人に代わって語るという迂回路は、ドキュメンタリーというジャンルにとって新しい地平を開いたと言えるのか。本稿ではこの2点を軸に、作品の位置づけと手法の意味を考えたい。
「聞き書き映画」という枠組み——愛知県美術館シリーズの系譜
『A Window of Memories』は、愛知芸術文化センター・愛知県美術館が委託制作するオリジナル映像作品シリーズの一本として作られている。このシリーズにはこれまで、三宅唱『THE COCKPIT』、草野なつか『王国(あるいはその家について)』、小森はるか『空に聞く』、小田香『セノーテ』といった作品が名を連ねてきた。いずれも劇映画とドキュメンタリーの境界を意識的に横断してきた作家たちであり、清原の起用はこの文脈のなかで読む必要がある。
このラインナップに共通するのは、「記録する」という行為そのものを問い直す姿勢だ。小森はるかの『空に聞く』が被災地のラジオパーソナリティを追いながら「聞くこと」の倫理を扱ったように、このシリーズは一貫して、当事者の声をどう映像に定着させるか、あるいは定着させないかという問いを抱えてきた。清原がこの系譜に加わったことは、彼女のフィルモグラフィにとっての転回であると同時に、シリーズ自体の問題意識の延長線上にもある。
なぜ「朗読」なのか——語る身体と生きた身体の分離
本作の核心は、祖母たちが不在であることではなく、むしろ「生きた本人の記録映像」と「他者が語る朗読映像」が同一画面上で交互に置かれている点にある。監督は祖母の言葉を聞き、共にテキストへと編みながらも、その言葉を語る役目は孫でも家族でもない二人の若い俳優に託す。祖母たち自身の生活の記録は消去されず、むしろ俳優の朗読と並置されることで、「語られた記憶の主」と「その記憶を声にする者」が意図的に分離されたまま提示される。写真家の志賀理江子は本作について、語ることで初めて思い出される記憶があるのではないかという視点と、実の娘ではない俳優がその記憶を声に宿すという、発話に至るまでの遠回りな手続きの心地よさに触れている。
この「分離」こそが、本作をたんなる聞き書きの映像化から一歩進めている部分だろう。当事者本人の記録映像がそのまま流れるなら、それは通常の聞き書きドキュメンタリーの範疇に収まる。しかし清原は、本人の姿を隠すのではなく、あえてその隣に別の声・別の身体を並べることを選んだ。結果として生まれるのは、個人史でありながら、語り手本人の生の声とは異なる回路を通ることで、誰の記憶とも響き合う余地を持った語りだ。劇映画の脚本家として鍛えてきた「声を書く」技術が、ここでは他人の人生を預かるための器として転用されている。
これは、フィクション作家がドキュメンタリーに越境する際にしばしば陥る「再現ドラマ」的な作為性とは異質なものだ。再現ドラマは不在の過去を映像として補完しようとするが、本作は本人の映像を消さないまま、それでもなお朗読という迂回を必要とした。本人がすでに画面にいるにもかかわらず、あえてその言葉を別の身体に語らせるという二重性こそが、単純な「証言の記録」を超えたところにある。この構造が、清原がこれまでの劇映画で培ってきた「画面に映るものと映らないものの間の緊張」——『わたしたちの家』の未解決のまま終わる謎、『すべての夜を思いだす』の記憶をめぐる時間構造——と地続きであることは指摘しておきたい。
小規模インディーズ配給における一つの戦略的成功例
清原がこれまで国際的に評価されてきたのは、劇映画の作家としてだった。『わたしたちの家』と『すべての夜を思いだす』の2作連続フォーラム部門選出、さらにニューヨークの「New Directors/New Films」への連続選出は、テオ・アンゲロプロスやケリー・ライカート、濱口竜介といった作家をいち早く紹介してきた枠組みでの評価であり、清原はその系譜に連なる存在として位置づけられてきた。
こうした「作家性」の評価軸を持つ監督がドキュメンタリーに転じるとき、業界的にはいくつかの読み方が可能になる。ひとつは、劇映画の資金調達や配給の枠組みでは実現しにくい題材・手法への挑戦として、委託制作という形態が機能したという見方。もうひとつは、清原自身のテーマ——記憶、家、複数の時間が重なり合う場——が、劇映画という形式のなかですでに臨界点に達しており、ドキュメンタリーという別の器を必要としていたという見方だ。後者は推測の域を出ないが、『すべての夜を思いだす』が個人の記憶と集合的な記憶の境界を主題にしていたことを踏まえると、その延長線上に「本物の」記憶の聞き書きへ向かうのは、決して唐突な転回ではない。
配給・興行の観点から見れば、Bunkamuraル・シネマでの単館系ロードショーという規模感は、清原のこれまでの作品と同様の路線だ。ベルリン作家としてのブランドと、山形IDFFコンペ選出というドキュメンタリー映画祭での評価軸の両方を持つ本作は、劇映画ファンとドキュメンタリー愛好者という異なる観客層をどちらも取り込みうるポジションにある。これは小規模インディーズ配給における一つの戦略的成功例として、今後の同種企画の参照点になる可能性がある。
新たな地平を見つけられたか
冒頭の問いに戻る。本作はドキュメンタリーというジャンルにとって新たな地平を切り拓いたのか。
「本人の記録映像と、他者による朗読映像を並置する」という手法自体は、決して前例のないものではない。聞き書き、代弁、再演といった手法は、ドキュメンタリー映画史のなかで繰り返し試みられてきた。したがって、手法そのものの新規性を過大に語るのは正確ではない。
しかし本作の意義は、手法の新規性よりも、劇映画作家としての作家性を保持したまま、その作家性の核——声にならない関係性、複数の時間の重なり、画面に映るものと語る声の間の緊張——をドキュメンタリーという形式に接続し直した点にある。清原にとって本作は「初めてのドキュメンタリー」でありながら、実質的には『わたしたちの家』『すべての夜を思いだす』から続く一本の線の上にある作品だ。ジャンルを越境しながらも作家的一貫性を失わなかったことこそが、本作の最大の達成だと言える。
その意味で、本作が示した地平は「ドキュメンタリーというジャンルの拡張」というより、「作家がジャンルを横断しても揺らがない核を持つこと」の証明に近い。これは配給・製作の現場にとっても示唆的だ。劇映画作家に委託制作でドキュメンタリーを撮らせるという愛知県美術館シリーズの企画意図そのものが、今回の清原の起用によって一つの成功例を得たとも言える。今後、同様の「越境委託」企画が他の劇映画作家に対しても組まれるかどうか、業界的な注目点になるだろう。
『A Window of Memories』(2026年・日本・1時間6分)
監督:清原惟
出演:砂子旭子、清原磋智子、小山薫子、坂藤加菜
配給:amieee
公開日:2026年8月7日
©︎ Yui Kiyohara
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