
内田けんじ論――空白の13年、石油を掘るように書く男
『鍵泥棒のメソッド』(2012)以降、内田けんじの劇場長編はゼロだ。
このこと自体は、ファンの間ではとうに周知の事実になっている。SNSを検索すれば「内田けんじ監督って今何してるんだろう」という呟きが定期的に浮かんでは消え、Yahoo!知恵袋には「なぜ新作が作られないのか」という素朴な質問がいまだに投稿され続けている。カンヌで4冠を獲った新人監督、興収5億円超のヒットを飛ばした2作目、上海国際映画祭で日本映画として初の脚本賞を獲った3作目――このキャリアの上昇曲線を知る者ほど、この沈黙の長さに戸惑う。
2025年、内田は俳優・中村靖日の追悼特集で『運命じゃない人』の上映に登壇している。完全に業界から姿を消したわけではない。コナンのスピンオフ脚本やアニメの脚本仕事も、途切れ途切れながら続けている。つまりこれは「筆を折った」物語ではない。劇場オリジナル長編という、内田けんじにとって最も負荷の高い形式だけが、13年間止まっているという話だ。
なぜこの人だけ、こんなに待たれ続けるのか。それを考えるには、まず彼がどうやって話を作る人間なのか、思考回路そのものを見ていく必要がある。
石油を掘るように書く
内田けんじのフィルモグラフィーは、他の追随を許さない完成度の高さで知られる。処女作『WEEKEND BLUES』(2001)の時点で、すでに後年の全作に通底する構造――一見たわいもない日常の一夜が、実は緻密に張り巡らされた伏線の集積だったと判明する仕掛け――が完成している。この構造は『運命じゃない人』『アフタースクール』『鍵泥棒のメソッド』と、一貫して受け継がれていく。
この「たわいもないのに緻密」という逆説こそが、内田けんじの制作サイクルを長くしている最大の要因だと考えられる。
本人は『鍵泥棒のメソッド』公開時のインタビューで、アイデアの作り方についてこう語っている。日常生活の中で「これは映画にしたら面白いかもしれない」と感じた断片を、脚本の形になるかどうかも分からないまま記憶にストックしておく。それらが何かの拍子に噛み合った瞬間、初めて物語として動き出す――という手法だ。内田自身はこれを「“どこかに答えがあるはずだ”って石油を掘っているようなもの」と表現している。最初から設計図を描いて掘るのではなく、掘ってみるまで出るかどうか分からない。だから「暫く書いてみないとダメかどうかは分からない」のだという。
同じインタビューで明かされているのは、『鍵泥棒のメソッド』が『アフタースクール』完成直後から着想され、何本もの没脚本を経て4年がかりで完成したという事実だ。桜井・コンドウ・香苗という3人のキャラクターへの愛着だけを頼りに、成立しない話を何度も書き直し続けた末に、「コンドウが記憶喪失になって桜井と人生が入れ替わる」というアイデアに行き着いてようやく本腰を入れられた、と本人は振り返っている。
Wikipediaに残るこんな逸話も、常時プロットを組み立て続けている頭の中を想像させる。電車の中でアイデアがひらめくと、つい身体で実演してしまい、周囲から変な目で見られる。だから「僕はそういう人なんです」という顔をして押し通す、というのだ。オンとオフの切り替えがない、四六時中ストーリーを組んでいる人間の姿がここにある。
神の視点、と主演俳優は呼んだ
この緻密さは、脚本の完成度だけでなく、現場での演出にも及んでいる。それを最も雄弁に語っているのが、『鍵泥棒のメソッド』で共演した堺雅人・香川照之・広末涼子、3人の証言だ。
堺は内田の現場について「監督の指示が的確で、言われたことをやっていれば絶対に面白いものができるという信頼がある」と述べ、その演出の具体性を「走ってやって来て、ここに座って、ふぅふぅと息をついて、この人を気にしながら、これをやってください」というレベルだったと明かしている。
もっとも踏み込んだ証言をしているのは香川照之だ。内田に「この人の方向を見て話してください」と指示されたとき、脚本を読み込めば当然その視線の向きになる、ということが台本にすでに書き込まれていたことに気づかされたという。香川はこの構造を「神の視点」と呼んだ。「多くの監督が見逃して、成立させてしまうところを、内田監督は具体的に指摘してくれる」――つまり脚本の緻密さが、演出の細部までをあらかじめ規定している。
広末涼子も同様に、「演出もカット割りも、イメージがしっかりとでき上がっている」ことを証言し、指定された動きに従うことでかえって感情表現が引き出されたと語っている。
そして香川はこうも付け加えている。「監督が4年間も転がした脚本。自分のところだけを覚えて行くような俳優では太刀打ちできない」。キャリアがないと太刀打ちできないスタイル、と。この一言は、内田けんじの脚本がどれほど密度の高い設計物であるかを、俳優という受け手の側から証言する貴重な断片だ。
トリガーは、たぶんない
ここで当然浮かぶのが、「これほど緻密に組み立てる人だからこそ、何かのきっかけで書けなくなったのではないか」という疑問だ。
正直に書く。この問いに答える情報は、現時点で見つからない。本人が沈黙の理由を明確に語った会見やインタビューは公表されておらず、離婚や体調といった私生活上の出来事を「原因」として結びつける確たる根拠もない。ここで安易にそうした推測を積み重ねることは、事実に基づかない詮索になってしまう。
だが、むしろ「特定のトリガーがない」ということ自体が、内田けんじという監督のフィルモグラフィーの本質を言い当てているのかもしれない。彼の制作サイクルは、そもそも外的な断絶がなくても止まりやすい構造を内包している。『アフタースクール』から『鍵泥棒のメソッド』までにも4年、何本もの没脚本を要している。石油を掘るように書く人にとって、「出ない期間」は事故ではなく工程の一部だ。13年という数字は、彼にとって「特別な空白」ではなく、単にこれまでで一番長く続いている掘削期間なのかもしれない。
待たれ続けるということ
『鍵泥棒のメソッド』の韓国リメイク『LUCK-KEY/ラッキー』(2017)は、内田けんじという固有名詞が不在のまま、彼の脚本の骨格だけが国境を越えて生き続けている例だ。2025年にはパリの日本映画祭Kinotayoで『鍵泥棒のメソッド』がレトロスペクティブ上映されている。国内外を問わず、内田けんじの旧作は現役で語られ続けている。新作が出ないという事実と、旧作が古びないという事実が、同時に成立している。
ファンの間で彼が「創る天才ではなく作る天才」と評されることがある。ゼロから未知のものを生み出すタイプではなく、手持ちの材料を組み合わせて誰も見たことのない面白さに変換するタイプ、という意味だ。もしそうだとすれば、その「組み合わせ」に必要な時間は、他の誰にも予測できない。
13年間、観客は答え合わせを待たされている。だがこの待たされ方こそが、内田けんじというブランドをかたち作ってきたのかもしれない。次の脚本が「噛み合う」瞬間がいつ来るのか。それを知っているのは、本人だけだ。
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