
『Ink』が遡るのは「タブロイド」ではなく「SNS時代の起源」だ——ダニー・ボイルが炙り出すメディアの発火点
1969年、経営難だったタブロイド紙『ザ・サン』を買収したルパート・マードックが、編集長ラリー・ラムを迎え、同紙を世界最大級の発行部数を誇る大衆紙へと作り変えていく——本編が描くのはこの1969年という1年間に絞られている。ボイル自身、「1969年、人類が初めて月に降り立った年。そしてルパート・マードックとラリー・ラムが、世界をそれ以上に変えることになる新聞を立ち上げた年でもある」と語っており、月面着陸という人類史的な出来事と並べて語られるくらい重い意味を、この一年に与えている。9月2日のヴェネチア国際映画祭オープニング作品として初上映後、12月11日から米国で劇場先行公開、2027年1月8日からNetflixで米国・中南米向けに配信開始という流れが既に決まっている。
なぜ今、なぜタブロイド紙の”起源”なのか
ボイルは2017年、ロンドンのウエストエンドでジェームズ・グラハムの戯曲『Ink』を観て強く惹きつけられ、映画化の可能性をすぐに直感したという。ただしこの企画はすんなり通ったわけではなく、スタジオや出資者からの懐疑的な反応を受けながらも、ボイル自身が推し進め続けてきた経緯がある。
その執着の核にあるのが、ボイルがCineEuropeでのStudiocanalスレート発表で語った歴史認識だ。ボイルは1969年に起きた出来事を列挙しながら、その中でも『ザ・サン』の買収・再創刊こそが、その後のクリックベイト(釣りタイトル)からTruth Social(トランプが2022年に立ち上げたSNS。編集というフィルターを介さず本人が直接大量発信できる、現在のメディア環境の極端な到達点として引き合いに出されている)に至るまで続くメディア環境の変化の”発火点”だったと位置づけている。Vanity Fairの取材でも、この題材に惹かれた理由を「報道の未来、真実の未来」を検証する手段だったと説明した。
つまり『Ink』は、1969年という時代そのものへのノスタルジー映画ではなく、SNS時代の情報環境がどこから始まったのかを遡る映画として企画されている。実際ボイル自身、活版印刷や輪転機による新聞制作の身体的な質感を再現しながらも、単なる懐古には興味がないと明言している。狙いはあくまで、発行部数競争という装置が現在のメディア環境への”発火点”をどう生み出したかを追うことにある。
この歴史認識は英国国内の文脈(激しい報道・シェア競争を繰り広げたタブロイド戦争、イギリスが欧州連合(EU)から離脱したブレグジット以降のメディア不信)を強く前提にしていると考えられ、日本の観客がどこまで同じ実感を持てるかは、公開時の受容のされ方を見る上で一つの論点になりそうだ。
「英国ローカル紙」というギャップ——日本の読者が見落としがちな規模感
ルパート・マードックといえば、Fox NewsやThe Wall Street Journal、The New York Postまでを擁する国際的なメディア王というイメージが先に立つ。しかし『Ink』が描く原点の『ザ・サン』は、実のところ国際紙ではなく、英国+アイルランド島限定のローカルなタブロイド紙にすぎない。地域版としてスコットランド版、北アイルランド版、アイルランド共和国版を持つが、活動範囲はあくまでこの島嶼圏内に閉じている。
その上で、発行部数の推移を見ると、このタイトルの背景にある熱量がわかりやすい。
- 1969年11月のリニューアル直後:1年で部数が150万部超まで倍増
- 1978年:ライバル紙『デイリー・ミラー』を抜き、英国最大の日刊紙に(具体的な部数は不明)
- 1980年代後半〜1990年代半ば:ピーク圏。資料によって「1987年がピーク年」「1990年代半ばに恒常的に400万部超」と記載が微妙に分かれるが、おおむねこの期間に日次400万部規模を記録
- 2020年3月:公表された最後の数値は121万915部。以降The Sunは発行部数監査機構(ABC)への数値提出自体を停止している
150万→400万→120万という弧を、英国の観客は「自分たちの生きてきた時代の空気」として体感的に知っている。一方、日本には発行部数でここまでの規模と政治的影響力を持つ大衆紙という概念自体が薄い(スポーツ紙・夕刊紙とは市場構造も社会的機能も異なる)。「なぜたった1紙の部数争いが、国全体の政治文化やメディア環境そのものを動かしたのか」——このギャップこそが、日本の観客にとって『Ink』を読み解く最初のハードルであり、同時に一番面白い入り口でもある。
マードックを”免罪”も”断罪”もしない、という第三の手
ここが本作の演出上、最も際どい判断だろう。ルパート・マードックには既に強固なパブリックイメージ——権力と結びついた”悪玉のメディア王”——が定着している。過去の映像作品でも、『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』のエリオット・カーヴァー(ジョナサン・プライス)のような露悪的な悪役キャラクターの元ネタにされたり、Fox Newsのロジャー・エイルズ更迭劇を描いた『Bombshell』『The Loudest Voice』で脇役的に描かれたりしてきた程度で、マードック自身の”成り立ち”を正面から扱う映画化は今回が初めてとなる。
ボイルはこのイメージを単純に払拭する方向にも、単純になぞる方向にも進まなかった。取材でボイルは「モンスター化してしまえば、その他全員が自分の責任から簡単に逃れられてしまう」と述べ、意図的に単純な悪役化を避けたと説明している。これは免罪の発言ではなく、むしろ「マードックだけを悪玉に仕立てて観客が安心する構図を作らない」という、観客側への矛先の向け直しに近い。
具体的な手口は二つある。ひとつは、劇中で描かれるマードックが30代前半、まだ”生意気な”段階に留められていること。観客の頭の中には既に、晩年の完成された巨大メディア王という固定イメージがある。そこにあえて”まだ何者でもなかった頃”の姿だけを見せることで、その固定イメージを一旦保留させる仕掛けになっている。もうひとつは、映画の主観の重心がマードックではなく、当時まだ無名に近かった編集長ラリー・ラムに置かれ、二人の”パートナーシップと緊張関係”に焦点が当てられていること。ボイル自身、北部出身のアウトサイダーであるラムに、自らのアンダードッグ意識を重ねていたとも語っている。
つまり本作がとっているのは、「悪人のまま見せる」でも「イメージを払拭する」でもなく、”悪人になる前の人物”にカメラを向け、主観をラム側にずらすことで、観客が単純な断罪をできないようにする、という第三の手だ。
配給権も、約20カ国に細切れで売られている
配給面にも触れておきたい。本作はStudiocanalが全額出資し、ワールドセールスを自ら握った上で、英・仏・独・伊(Lucky Red経由)・ポーランド・ベネルクス・豪州・NZという自社が強い地域を自身で劇場配給し、北米・中南米の権利だけをNetflixに売却するという構造を取っている。Netflixが全世界配信権をまとめて買わない選択は同社としては珍しい部類に入る。
米国では12月11日に劇場先行公開したのち、2027年1月8日からNetflix配信という設計で、これはオスカーシーズンを見据えたウィンドウ戦略と読める。Studiocanal管轄地域でも、1月6日のフランス・ベルギーを皮切りに、1月7日オランダ・オーストラリア・ニュージーランド、1月8日英・ポーランド、2月18日イタリア、2月25日ドイツと、地域ごとに時差をつけた劇場ロールアウトが組まれている。
ヴェネチア開幕作品ということ自体が、Studiocanalにとって「グローバル一括売却をしない」という強気の交渉ポジションを可能にした側面もありそうだが、この因果関係は現時点では推測の域を出ない。
さらに配給の実態を見ると、Netflix・Studiocanal自社配給以外の地域は、カンヌのマーケットを通じて国・地域ごとにバラバラのローカル配給会社へ個別売却されている。確認できただけでも、ブルガリア、カナダ、チェコ・スロバキア、旧ユーゴ圏、ギリシャ、ハンガリー、アイスランド、インド、イスラエル、モンゴル、ポルトガル、ルーマニア、北欧、南アフリカ、韓国、スペイン、スイス、トルコ、ウクライナと、実に20近い配給会社に細分化されて権利が渡っている。加えて興味深いのは、これらとは別に「エアライン」枠が独立したテリトリーとして存在し、Echolakeという専門会社が航空会社向けの機内エンターテインメント配信権をまとめて取得している点だ。つまり本作の配給網は、単純な国境単位の切り分けだけでなく、劇場・配信・機内という配給チャネルの種類そのものによっても分割されている。
日本についてはこの6月時点の一次売却リストに名前が見当たらない。韓国がすでにNK Contentへの売却を終えている一方で、日本配給がこの波に含まれていないということはヴェネチア上映後の反応を見てから交渉する方針か、単に交渉が遅れているだけの可能性もあり、現時点では日本での配給がどういった形になるのかは判断材料がない。
日本配給が決まった場合の動員力についても触れておきたい。ボイルは過去、キャスティングにおいて意図的に無名の俳優を起用する哲学を公言している人物だ。『イエスタデイ』の主演にヒメーシュ・パテルという無名の俳優を起用した際、スタジオ側はスター起用を望んだが、ボイルはそれと戦って押し通したという。理由についてボイルは「無名の俳優が好きだ。こういう物語で最初からスターを起用してしまうと、スターダムへの道のりのダイナミズムが薄れてしまう」と語っている。『トレインスポッティング』のユアン・マクレガー、ロバート・カーライル起用なども同じ系譜にある。
ところが『Ink』のキャスティングは、この得意技が使えない中間的な座組みになっている。ガイ・ピアースもジャック・オコンネルも、無名の新人が持つ”成長物語のダイナミズム”を演出できる存在ではなく、かといって日本の一般層に強い動員力を持つスターでもない。特にオコンネルは、直近では『罪人たち』でアイリッシュダンスを踊る吸血鬼、さらに『28年後…』シリーズでは悪魔崇拝カルトの教祖サー・ジミー・クリスタルを演じるなど、ここ1年余りで一気に”狂気の悪役”のイメージが定着した俳優で、今回演じる実在の編集長という抑制的な役どころとの間には、日本の観客からすると説明コストの高いギャップがある。題材(英国ローカルなタブロイド紙の成り立ち)、キャスト(動員力の薄い実力派)の両面で、日本の一般シネコン向けの「わかりやすい客寄せ」材料が乏しいのが実情で、日本での着地点としては、ワイド公開よりもミニシアター・単館系での展開の方が現実的に見える。
一極集中を避け、地域・チャネルごとに配給の主導権を細かく分散させる構造は、本作が描く「メディアの発火点」というテーマと、意図せず呼応しているように見える。日本配給がまだ決まっていないという事実は、裏を返せば、その枠がまだ誰の手にも渡っていないということでもある。ヴェネチアでの評判次第で、この空白がどう埋まるのか——続報を待ちたい。

『Ink(原題)』(2026年・イギリス・アメリカ・フランス・1時間56分)
監督:ダニー・ボイル
脚本:ジェームズ・グラハム
出演:ジャック・オコンネル、ガイ・ピアース、クレア・フォイ、ブレイク・ハリソン、ブライアン・グリーソン、アンガス・イムリー、パトリック・ケネディ、ルーシー・ラッセル、リストファー・フルフォード 他
製作:Studiocanal、Media Res、House Productions
第83回ヴェネチア国際映画祭 オープニング作品・コンペティション部門
日本公開:未定(本稿執筆時点)
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