
塚本晋也、4度目のヴェネチア・コンペ――『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は無冠を返上できるか
第83回ヴェネチア国際映画祭(8月30日時点で開幕前、9月2日〜12日開催)のコンペティション部門に、塚本晋也監督の最新作『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』が正式出品されている。ワールドプレミアは9月4日。ベトナム戦争に従軍し、帰還後PTSDに苦しみながら「加害者の傷」を語り続けた実在の元米兵アレン・ネルソンの実話を、塚本監督が英語作品として初めて映画化した一作だ。

4回目のコンペ出品――長く「勝てていない」舞台
物語の主人公アレン・ネルソンは、貧困と差別から逃れるため18歳で海兵隊に入隊した青年だ。沖縄・キャンプ・ハンセンでの勤務を経て1966年にベトナム戦線へ送られるが、そこで待っていたのは栄光ではなく、村に潜んでいるとされたベトコン容疑をかけられた人々が老若男女問わず殺されていく凄惨な現実だった。人を殺すたびに感覚は麻痺していき、23歳で帰還した後のネルソンを待っていたのは、戦場の記憶に苛まれ続ける眠れぬ日々である。日本公開は9月11日、kino cinéma 新宿ほか全国で予定されている。
この記事の公開はプレミア前――つまり本作についての現地の評価や反響はまだ存在しない。ここで語れるのは、塚本晋也という作家がこれまでヴェネチアとどう関わってきたかという「戦績」と、そこから見えてくる今回のコンペでの位置づけである。
塚本監督のヴェネチア出品歴を並べてみると、意外と見落とされがちな事実がある。今回のコンペ出品は、実は初めてではない。
- 『鉄男 THE BULLET MAN』(2009年/第66回)
- 『野火』(2014年/第71回)
- 『斬、』(2018年/第75回)
そして今回の『ネルソンさん〜』(2026年/第83回)で、コンペティション部門への出品はこれで4度目になる。塚本監督といえば『KOTOKO』や『ほかげ』といったオリゾンティ部門での存在感が語られがちだが、実態はメインコンペとオリゾンティの双方を行き来してきた作家というのが正確な姿だ。
そしてもう一つ見落とされがちな点――過去3度のコンペ出品作は、いずれも無冠に終わっている。オリゾンティでは結果を出し続けてきた塚本監督にとって、コンペティション部門は長く「勝てていない」舞台でもある。
オリゾンティでの実績――結果を出してきた場所
一方でオリゾンティ(および前身のコントロコレンテ)部門での戦績は明確だ。
- 『六月の蛇』(2002年):コントロコレンテ部門 審査員特別大賞
- 『KOTOKO』(2011年):オリゾンティ部門 最高賞
- 『ほかげ』(2023年):オリゾンティ部門 NETPAC賞
コンペでは無冠、オリゾンティでは受賞――このギャップこそが、塚本晋也というヴェネチアでのキャリアの輪郭を作ってきた。
審査員としての塚本晋也
もう一つ、今回のコンペ挑戦を語るうえで欠かせない事実がある。塚本監督はヴェネチアで3度、審査員を務めている。
- 1997年:メインコンペティション部門(北野武『HANA-BI』が金獅子賞を獲得した年)
- 2005年:オリゾンティ部門
- 2019年:メインコンペティション部門(第76回)
日本人でヴェネチアの審査員を3度務めた経験があるのは、大島渚、坂本龍一、そして塚本晋也の3人のみ。つまり塚本監督は、単なる出品者ではなく「審査する側の論理」を内側から知る数少ない作家でもある。この視点を持つ作家が、無冠のコンペ挑戦史を塗り替えにいく――という構図自体が、今回の出品を語るうえでのフックになる。
座組のスケールアップ
今回の『ネルソンさん〜』は、過去のコンペ出品作と比べても座組が明確に異なる。
- 塚本監督にとって初の英語作品
- ニューヨーク、ベトナム、タイ、沖縄の4カ国ロケ(キャリア初)
- 主演にロドニー・ヒックス、共演にジェフリー・ラッシュ、リリー・フランキーら
- スタッフ・キャスト総勢約200人規模という、過去最大級の撮影規模
自らカメラを持ち、俳優と同じ目線で現場に立ち続けるという塚本監督のスタイルそのものは変わっていないが、作品のスケールという点では明らかに新しい段階に入っている。
審査員団と、去年の前例
今回のコンペ審査員長を務めるのはマギー・ギレンホール。自身の監督デビュー作『The Lost Daughter』(2021年)でヴェネチアの脚本賞を受賞した経験を持つ作り手でもある。審査員団には、去年(第82回)『ヒンド・ラジャブの声』(2026年9月4日全国公開)を手がけたカウテール・ベン・ハニア監督も名を連ねている。
その『ヒンド・ラジャブの声』は、ガザで殺害されたパレスチナ人少女の実話を描き、プレミア上映で23分間のスタンディングオベーションを受け、最高賞の大本命と目された作品だった。しかし結果は銀獅子賞(グランプリ)にとどまり、金獅子賞はジム・ジャームッシュの家族群像劇『Father Mother Sister Brother』が獲得している。観客が最も強く反応した作品と、審査員が最高賞を与えた作品が分かれた年だった。
この前例は、「戦争や紛争を扱う作品は強い情動的反応を生みやすいが、それが必ずしも最高賞に直結するわけではない」ということを示している。ギレンホール自身も、フェミニズムや市民的自由といったテーマには積極的に発言してきた一方、イスラエル・パレスチナ問題に関しては個人的な政治的立場を意図的にプレスの場から切り離す姿勢を取ってきた人物だ。
塚本作品はこの構図の中で、やや特殊な位置に立つ。『ヒンド・ラジャブの声』が被害者側の声を代弁する作品だったのに対し、『ネルソンさん〜』は「加害者側の傷」を描く、構造的には逆方向のアプローチを取っている。特定の立場に肩入れしにくいテーマ設定であることは、対立を煽るような反応を警戒する審査員団にとってはむしろ受け入れやすい可能性がある。
さらに言えば、今年のコンペにはこの力学を過去の教訓ではなく現在進行形にする作品が入っている。9月10日にプレミアを迎える『NAZA』は、2025年アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞した『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』のユヴァル・アブラハム、レイチェル・ソール両監督による新作で、ガザでの民間人殺害の仕組みをイスラエル軍の内部から告発する内容だ。ガーディアン紙が製作に関わり、ジョナサン・グレイザー(『関心領域』)が製作総指揮を務める本作は、今年のコンペで唯一のドキュメンタリーであり、8月24日という異例の直前追加でラインナップ入りしている。
つまり今年のヴェネチアは、去年の『ヒンド・ラジャブの声』の延長線上に、さらに直接的にイスラエル軍の行為を告発する作品を抱えている。塚本作品の「加害者の傷」という視点は、被害者の声(去年)でも告発(今年のNAZA)でもない、第三の角度として審査員団の目に映る可能性がある。
上位進出の可能性は――『NAZA』という強力な対抗軸
ここから先は現地評価が出る前の見立てにすぎない。ただし材料は揃っている。無冠が続いたコンペ挑戦史、オリゾンティでの確かな受賞歴、審査員として3度この舞台の内側を見てきた経験、初めて挑む英語作品というスケールアップ、そして今年のコンペにNAZAという強力な対抗軸が存在するという状況――この組み合わせは、単に「出品された」以上の文脈を持っている。
NAZAが持つ告発のドキュメンタリーとしての強度と、この瞬間の政治的緊急性は、最高賞の大本命に押し上げるだけの力を持つ。ただしドキュメンタリーが金獅子を獲るのは前例がないわけではないにせよ多数派ではなく(2022年『美と殺戮のすべて』など例外はある)、対立を煽るような反応を警戒する審査員団であれば、フィクションとして「加害者の傷」を静かに描く塚本作品の方に票が流れる余地は十分残っている。無冠返上の鍵は、この立場に肩入れしにくいという性質がどう評価されるかにかかっていそうだ。
現地の反応については、プレミア後に改めて報告したい。
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(2026年・日本・1時間56分)
監督・脚本:塚本晋也
出演:ロドニー・ヒックス、ジェフリー・ラッシュ、マーク・マーフィ、リリー・フランキー、タチアナ・アリ
配給:キノフィルムズ
第83回ヴェネチア国際映画祭 コンペティション部門
公開日:2026年9月11日
© Mr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners ©Allen Nelson/KODANSHA
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