
『ヒンド・ラジャブの声』――届かなかった通話を、なぜ劇場で聞くのか
9月4日(金)、新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国で、カウテール・ベン・ハニア監督『ヒンド・ラジャブの声』(原題:The Voice of Hind Rajab)が公開される。配給はスターキャットアルバトロス・フィルム。
第82回ヴェネチア国際映画祭で史上最長となる23分間のスタンディングオベーションを浴び、銀獅子賞(審査員大賞)を含む8冠を獲得、第98回アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた話題作である。そして本作の監督は、この夏すでに次のステージに立っている。第83回ヴェネチア国際映画祭(8月末開幕、審査員長マギー・ギレンホール)の審査員団の一員として、である。前年の受賞者が翌年は審査員席に座るという構図は、単なる経歴紹介の一行では済ませたくないので、後段で改めて触れる。

Story:
2024年1月29日、パレスチナの人道支援組織・パレスチナ赤新月社のボランティアチームが一本の緊急通報を受ける。ガザ地区で銃撃下の車内に閉じ込められた6歳の少女、ヒンド・ラジャブからだった。スタッフたちは少女との通話をつなぎ止めながら、救出のためにあらゆる手を尽くす――。
本作の核にあるのは、劇中の通話シーンで使用されている音声そのものが、この日実際に赤新月社が記録した通話記録だという事実である。劇中に登場する少女の写真も、ヒンド・ラジャブ本人のものが使われている。フィクションとドキュメンタリーの境界を行き来する作家として知られるベン・ハニア監督が、再現ドラマの体裁を取りながらも、素材そのものは実録に固定する、という選択をしていることになる。
Behind The Inside:
製作総指揮の並びが、すでにひとつのニュースである
キャスト以上に目を引くのが、製作総指揮に名を連ねる顔ぶれだろう。ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、アルフォンソ・キュアロン、ジョナサン・グレイザー、マイケル・ムーア、スパイク・リー。それぞれ立場も作風も異なる映画人たちが、チュニジア・フランス合作の一本にこれだけ揃って名を連ねる例は多くない。
これは通常の「著名人が支援を表明した」という話にとどまらない。国際共同製作の枠組みにおいて、こうした名前が製作総指揮としてクレジットされること自体が、配給・宣伝の初速や劇場側の扱いに実質的な影響を持つ。ハリウッドの主流からは距離のある題材が、ハリウッドの中心にいる人物たちの後ろ盾を得て世界を回っている、という構造そのものが、本作を語るうえでのもうひとつの軸になる。
再現や演出の手つきをあえて見せる作劇――監督について
カウテール・ベン・ハニアはチュニジア出身の監督・脚本家。『皮膚を売った男』(2020)でアカデミー国際長編映画賞に、『Four Daughters フォー・ドーターズ』(2023)で同ドキュメンタリー賞にそれぞれノミネートされており、本作『ヒンド・ラジャブの声』で自身3度目のオスカーノミネートとなった。『Four Daughters』はカンヌ国際映画祭でドキュメンタリー作品に贈られるルイユ・ドール(黄金の目)賞も受賞している。実話・実在の人物を扱いながら、再現や演出の手つきをあえて見せる作劇を続けてきた作家であり、その系譜の延長線上に本作がある。
Under The Film:
報道でもSNSでもなく、劇場の暗闇で89分間向き合う
ここで冒頭の話に戻る。ベン・ハニア監督は今年6月、第83回ヴェネチア国際映画祭の審査員に選出されたことが発表された。審査員長はマギー・ギレンホール、共同審査員には作曲家のダニエル・ブルームバーグ(『ブルータリスト』でアカデミー作曲賞)らが名を連ねる。
前年のコンペティションで最高賞級の評価を得た監督が、翌年は審査する側に回る。この人事の流れそのものは映画祭の常道ではあるが、今年のヴェネチアには、もうひとつの符合がある。ドキュメンタリー『NAZA(原題)』――『ノー・アザー・ランド』の監督によるガザ告発ドキュメンタリーで、今年のコンペティション唯一のドキュメンタリー枠として8月24日に急遽追加された一本――が、審査員席のベン・ハニアの前を通過していくことになる。前年の当事者性の強い受賞から一年、審査する立場で似た主題の作品とどう向き合うのか。この点は、当欄でも塚本晋也監督『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』のヴェネチア出品を扱った記事で審査員構成として触れているので、あわせて読んでいただきたい。
この符合を踏まえたうえで、あらためて本作を勧めたい。実際の通話記録という動かしようのない素材を、フィクションの器に乗せてスクリーンに届けるという選択は、報道でもSNSでもなく、劇場の暗闇で89分間向き合うことを観客に求めている。ヴェネチアが今年何を審査し、何を評価するのかを追う前に、まずこの一本を劇場で確かめてほしい。
鑑賞前に知っておきたいこと
- 劇中の通話音声は演技ではなく、赤新月社に保管されていた実際の記録が使用されている。
- 劇中で使われる少女の写真も、ヒンド・ラジャブ本人のものである。
- Rotten Tomatoesでは批評家スコア93%、観客スコア100%と、批評・観客の両方から高い評価を得ている(いずれも本稿執筆時点のスコアであり、変動する可能性がある)。
- 公開初日の9月4日より、売上の一部がヒンド・ラジャブさんの家族に直接寄付されるチャリティTシャツの販売も予定されている(一部劇場およびオンラインショップ albatros-film-shop にて)。
『ヒンド・ラジャブの声』(2025年・チュニジア・フランス・1時間29分)
監督・脚本:カウテール・ベン・ハニア
出演:サジャ・キラニ、クララ・フーリ、モタズ・マルヒース、アメル・レヘル
製作総指揮:ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、アルフォンソ・キュアロン、ジョナサン・グレイザー、マイケル・ムーア、スパイク・リー 他
配給:スターキャットアルバトロス・フィルム
日本公開:9月4日(金)新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国順次
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