
セルゲイ・ロズニツァ『Imperium』―― 60時間の未使用フィルムが暴く、もうひとつの「ソ連」
イタリア人が撮った「使われなかった60時間」
本作の骨格は、ロズニツァ自身が撮り下ろしたものではない。1970年から1973年にかけて、人類学者ディエゴ・カルピテッラが率いるイタリア人映像作家チーム(フォルコ・クイリチ、ルイジ・ディ・ジャンニ、ジョルジョ・アルロリオ、ジュゼッペ・フェラーラ)が、北極海からカラクム砂漠、コーカサスから中央アジアまで、当時のソ連領内を横断しながら撮影した約60時間分のフィルムが原資料になっている。この映像は長年イタリアのAAMOD(労働者運動アーカイブ・視聴覚アーカイブ)に眠っていたもので、ハリウッド・レポーターの報道によれば、そもそもはイタリア共産党の依頼でソ連の”勝利”を賛美する目的で撮られた企画だったという。ロズニツァはこのナレーションなしの記録映像を再編集し、モスクワを起点に辺境の農村へと向かうにつれて、体制が均質化しようとした多民族モザイクと、その内側にあった植民地主義的な力学を浮かび上がらせる構成をとっている。
ロズニツァ自身のコメントとして、「私は単に歴史のアーカイブを開きたいのではない。消え去った世界の広がりを伝え、権力・アイデンティティ・抵抗のメカニズム――それは今日の私たちを規定し続けているものだが――への理解を深めうる映画的体験を作りたい」という趣旨の発言がScreen Dailyに掲載されている。
なお本作の起点は、監督自身がこのテーマを長年温めていた、という経緯ではない。イタリアの報道によれば、企画を発起したのはAAMODそのものだ。同アーカイブがArchivio Luce Cinecittà、Cineteca Nazionaleという国内の他アーカイブ機関を史上初めて連携させ、482本の16mmリール(約60時間分)の復元・デジタル化を先に進め、失われていた音声もサウンドデザインとして後付けで再構築した――という発掘・復元作業がまず完了し、その素材を映画として成立させられる作家として、ロズニツァに”委ねられた”というのが実際の順番になる。ドイツ・フランス・リトアニアを巻き込んだヨーロッパ規模の共同製作体制も、この復元プロジェクトが立ち上がった後に組成されたものだ。
ロズニツァの手法としての「アーカイブ編集映画」
本作は突然変異ではなく、ロズニツァが繰り返し取り組んできた”編集で語る”系譜の最新作にあたる。レニングラード包囲戦の記録映像を無音・無ナレーションで構成した『Blockade』(2005年)、1991年ソ連クーデターの記録『新生ロシア1991』(2015年)、ホロコースト跡地観光客を捉えた『アウステルリッツ』(2016年)、スターリンの国葬記録『国葬』(2019年)、ナチス戦犯裁判の記録『キエフ裁判』(2022年)――いずれも他者が撮った/公的に残された映像を素材に、モンタージュそのものを批評行為として機能させる作家性が一貫している。イタリア紙ArtsLifeも本作について「ロズニツァは映像に語らせ、モンタージュを通じて政治的言説を構築する」と評しており、この系譜上の一作として位置づけている。
検閲を経由しない場所で生まれた映画
もし本作がロシア国内配給を申請する事態になったとしても、通過は相当に困難だろう、というのが率直な見立てだ。2026年3月1日付でロシア文化省の映画配給証明制度が改正され、「ロシアの伝統的な精神的・道徳的価値を否定・毀損する」と判定された作品には配給証明を拒否できる規定が導入されている。ロシア人ないしロシア語話者の登場人物を「最高の精神性の体現者」以外として描く作品も対象になりうるとNPO Memorialは報じており、ソ連の植民地主義的側面――辺境の少数民族をモスクワがいかに均質化しようとしたか――を可視化することそのものが主題である本作は、この新規定が最も嫌う種類の作品にほぼ合致してしまう。
ただし、これはあくまで仮定の話にとどまる。本作の座組を見れば、そもそもロシア国内配給という経路に乗ることが最初から想定されていないことが分かる。製作国はドイツ・イタリア・フランス・リトアニアで、資金面でもドイツ政府の文化映画助成(総額約90万ユーロ規模、6作品への助成の一部)などヨーロッパ側の公的支援で成立している。素材そのものの成り立ちも示唆的だ。1970年から1973年にかけて、イタリア共産党の依頼で人類学者ディエゴ・カルピテッラのチームがソ連を「賛美」する目的で撮影した60時間分のフィルムが、長年イタリアのAAMODアーカイブに眠り、半世紀後にウクライナ出身の監督の手で”体制批判”の素材として再編集される――という、そもそもロシア(ソ連)側の意図とは正反対の方向へ二度も読み替えられた作品なのだ。ロシアの検閲機関が審査する以前に、生まれた瞬間から検閲を経由しない場所に置かれていると言った方が近い。
そのうえで、ロズニツァ本人もこの距離を公的に明言している。同監督は2022年のロシア侵攻直後、ロシア映画の一律ボイコットには反対する一方で欧州映画アカデミー(EFA)の対応を「生ぬるい」として自ら会員資格を返上した経緯があり、今年のビエンナーレをめぐっては「ロシア館には絶対に足を運ばない」とガーディアン紙に語っている。個別の作品を検閲されるかどうか以前に、本人が国家としてのロシアと距離を取る姿勢を繰り返し公にしてきた、というのが実際の顛末に近い。
なお、今回より具体的に本作を巻き込んだ摩擦はロシア政府側ではなくヨーロッパ側で起きている。今年のヴェネチア・ビエンナーレ(ビエンナーレとは”隔年”という意、美術展と建築展を交互に開催)は、映画祭と同時開催される美術ビエンナーレのロシア館出展をめぐってEUが助成金を打ち切るという騒動の渦中にあり、複数のEU加盟国から公的支援を受けたImperiumも巻き添えの形でこの一件に引き込まれた。ロズニツァ自身が「これはロシア映画でもプーチン礼賛のプロパガンダでもない」とEUの措置に釈明せざるを得なかったのは、皮肉と言うほかない。
“体制賛美用”の未使用フィルムを半世紀後に読み替える
『Imperium』は、冷戦下にイタリア共産党の依頼で撮られた”体制賛美用”の未使用フィルムを、ウクライナ出身の監督が半世紀後に読み替えるという、素材の来歴そのものが強烈な作品だ。ロシア政府による直接的な検閲というより、「誰の視点でソ連を語るのか」「誰の助成金が誰の映画を支えるのか」という、より入り組んだ政治力学のただ中でヴェネチアに登場した一作と言える。
『Imperium(原題)』(2026年・ドイツ、イタリア、フランス、リトアニア・2時間55分)
監督:セルゲイ・ロズニツァ
第83回ヴェネチア国際映画祭・ヴェニス・オープン(アウト・オブ・コンペティション / ノン・フィクション)
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