
『NAZA』はなぜ今年のヴェネチアの「本丸」になったのか——政治化する映画祭の構造を読む
第83回ヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に、8月24日という異例のタイミングで一本のドキュメンタリーが滑り込んだ。『NAZA』——ガザ地区における殺害の「仕組み」を追ったこの80分の作品は、7月23日に発表された当初のラインナップには存在しなかった。安全面の懸念から約1ヶ月保留された末の追加編入である。
本作が特異なのは、内容そのものだけではない。監督のユヴァル・アブラハムとレイチェル・ソールは、2025年アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞した『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』の共同監督4人のうち2人。製作はガーディアン紙とジェームズ・ウィルソン(JW Films)、そしてエグゼクティブプロデューサーにジョナサン・グレイザー——『関心領域』(2023、アカデミー国際長編賞受賞)と同じ座組みである。金獅子賞を争うコンペ部門唯一のドキュメンタリーというポジションも含め、これは偶然の集積ではなく、ヴェネチアという映画祭が意図的に選び取っているポジショニングだと考えられる。本稿ではその構造を整理する。
「今年で最も政治的なラインナップ」という自己申告
芸術監督アルベルト・バルベラは今年のラインナップを、戦争・パレスチナ・移民・気候変動・自由の縮小を扱う「近年で最も政治的な」布陣だと自ら形容している。『NAZA』はその象徴として扱われているが、同時に注目すべきは今年の本編ラインナップにイスラエル発の長編が一本も含まれていないという事実だ。「ガザを描く作品は迎え入れるが、イスラエル発の作品は選ばない」という非対称な構図が、外部から見れば政治的立場表明そのものに映る——バルベラ自身がその圧力を意識していることは、Varietyのインタビューでも語られている。
「安全面の懸念」の中身は明かされていない
編入までの約1ヶ月、公式には「安全面の懸念」としか説明されていない。デモや妨害への懸念なのか、出演者・関係者への懸念なのか、あるいは外交的な圧力を含む交渉だったのかは公表資料からは判断できない。ここは現時点で一次情報がなく、想像で埋めるべきではない領域だが、少なくとも「作品の完成が遅れた」という通常の編入パターンとは異なり、”掲載するかどうか自体が交渉の対象だった”作品であることは、追加のタイミング(通常ラインナップ発表の1ヶ月後)からも読み取れる。
座組みが語る「プレステージ・ジャーナリズム」の型
ガーディアン紙が製作に入り、『関心領域』チーム(ウィルソン+グレイザー)がバックにつく——この組み合わせは、調査報道メディアが映画祭の権威を借りて国際的な発信力を得るという、近年繰り返されているモデルの延長線上にある。『ノー・アザー・ランド』も配給会社がつかないまま北米で自主上映網を組んでオスカーを獲得した前例があり、アブラハム&ソールにとって今回はいわば「二作目」。前作の受賞歴が今回の編入判断そのものに信用力として作用したことは間違いないだろう。
コンペ入りは「Sacro GRA枠」——極めて例外的な最上級評価
ヴェネチアには長年の暗黙の運用がある——ドキュメンタリーは基本的にコンペティション部門には入れず、アウトオブコンペでサラ・グランデ(メイン上映会場)と世界中のプレスを与える、という形だ。ノンフィクション作品にとって、賞レースに入らなくてもこの露出量自体が十分な価値を持つ、という運用である。
ただし、これは絶対のルールではない。2013年、バルベラ自身がドキュメンタリーを本コンペに開放し、ジャンフランコ・ロージ『Sacro GRA(邦題:ローマ環状線、めぐりゆく人生たち)』が史上初めてドキュメンタリーとして金獅子賞を獲得した前例がある。つまり「コンペにドキュメンタリーを入れる」という判断そのものが、バルベラにとっては最上級の評価を意味する、極めて例外的な運用として存在してきた。今年その枠に選ばれたのが『NAZA』だった、という点は重要だ。
そして今年のアウトオブコンペ・ノンフィクション部門は、その運用の中でも際立って層が厚い。232分のアレックス・ギブニー『Musk』(本来2025年カンヌ上映予定だったが被写体のマスクの動向に振り回され延期)、ヴィクトル・コサコフスキー『Holy Wood Dust』、セルゲイ・ロズニツァ『Imperium』、ジュリア・ロクテフ『My Undesirable Friends: Part II — Exile』(355分)、そしてルカ・グァダニーノが手がけた7時間超のベルナルド・ベルトルッチ論『Joie De Vivre』——単独の監督特集が組めるほどの顔ぶれが、全て「アウトオブコンペ」に並んでいる。
この状況を踏まえると、『NAZA』が唯一コンペに引き上げられたという事実の意味合いが変わってくる。「今年はたまたま強いドキュメンタリーが他になかったから、消去法でNAZAが選ばれた」のではない。むしろ逆で、これだけの粒揃いの候補が(意図的に、あるいは結果的に)アウトオブコンペに据え置かれる一方で、『NAZA』だけがバルベラの「Sacro GRA枠」——例外的にコンペ入りを許す最上級の評価——を与えられている。この対比は公式にはどこにも説明されていないが、数字として並べるだけで「これは偶然ではない」という読みを十分に支える強度があると考える。
バルベラの選別基準——誰の「挑発」を迎え入れるか
同じ第83回では、ヴィンセント・ギャロの新作『Golden State Killer』がコンペ落選(コンペ外なら上映可、という条件をギャロ側が拒否)、ロシアの反体制監督イリヤ・フルジャノフスキーの『DAU』出品にウクライナ当局が抗議しバルベラが「現実の容認しがたい歪曲」と強く反論する、という別の政治的摩擦も同時進行している。
つまり今年のヴェネチアは複数方向から「なぜこの作品を(選んだ/選ばなかった)のか」を問われる立場にあり、バルベラは作品ごとに異なる態度——ある批判は正面から突っぱね、ある作品は追加編入という形で意思表示する——を使い分けている。『NAZA』の扱いは、その中でも最も踏み込んだ選択だったと言える。
なぜヴェネチアなのか——構造的な読み筋
ここから先は構造的な推測になるが、カンヌが政治的コンテンツに対してより慎重な立場を取りがちな中、ヴェネチアがここ数年「他の映画祭が引き受けないリスクを引き受ける」ことをブランド差別化の手段としてきた経緯(『ROMA』の金獅子賞受賞に象徴される配信直行作品の受け皿化なども含め)を踏まえると、『NAZA』の編入も同じ論理の延長にあるのではないか。トロント・テルライドとの季節競合が厳しさを増す中、賞レースの起点としての存在感を保つには「ここでしか観られない・ここでしか起きない」瞬間が必要であり、政治的緊張を伴う作品はその条件を満たしやすい。
コンペの「本丸」たり得るか
『NAZA』が「本丸」たりうるのは、作品の主題の重さだけでなく、それを受け入れる決断そのものが今年のヴェネチアという場の性格を最も明確に示しているからだ。9月10日サラ・グランデでのワールドプレミア、その場の空気——拍手の長さや退場者の有無——は、作品評価であると同時に、この編入判断がヴェネチアにとって「賭け」として成功したかどうかを測る指標にもなる。中間経過追跡記事(オッズ・スタンディングオベーション追跡)でも重点的にフォローしたい。
『NAZA(原題)』(2026年・イギリス・1時間20分)
監督:ユヴァル・アブラハム、レイチェル・ソール
第83回ヴェネチア国際映画祭・コンペティション部門
mk2 Films
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