
『ブロークン・ヴォイス』――恩顧という名の沈黙、なぜ加害者は擁護され続けたのか
Story:
共産主義体制が終わりを迎えた1990年代初頭のチェコ。名門「カンティチェラ少女合唱団」で、13歳のヴァレリエはBチームに所属し、選抜チームに入る姉の背中を追う日々を送っていた。ある日、合唱団を率いる指揮者ヴィテクがBチームの練習に現れ、ヴァレリエを名指しする。ひとりで歌い終えた彼女に、ヴィーテクは「ありがとう、それでいい」とだけ告げて去っていく。
やがて海外ツアーを控えた選抜合宿が始まり、欠員の代役として呼ばれたヴァレリエに、ヴィーテクは楽譜を手渡し「覚えなさい」と告げる。音程、発音、姿勢――少しでも乱れればポジションはすぐに入れ替わる厳しい練習のなか、宿舎では競争と嫉妬が渦巻く。それでもヴァレリエは、選ばれ続けるために歌うしかなかった。
ヴィーテクは時に優しく、時に距離を縮めながらヴァレリエに接し、彼女は少しずつ”特別”な存在として扱われるようになる。選ばれることは誇りであり、成功への近道だった。だが、その親密さは静かに、少女の感情と団員同士の関係を侵食していく。

Behind The Inside:
実話が下敷きにする分裂
本作が着想源とするのは、プラハの名門少年少女合唱団〈バンビーニ・ディ・プラガ〉で2000年代に発覚した実際の事件だ。指揮者ボフミル・クリンスキーは長年にわたり団員への性的虐待を行っていたとして2009年に有罪判決を受けた。だが、この事件の後日談には、単純な「加害者と被害者」の構図では収まらない部分がある。
判決後も、一部の元団員は証言を撤回した。現役団員の親たちは減刑・恩赦の嘆願書を準備しようとした。監督のプロバズニークは取材でこう語っている。「一方には、後に裁判で事実だと証明される恐ろしい行為で告発された人物がいる。もう一方には、それでも彼を擁護し続け、彼との間に非常に強い結びつきを持つ団員たちのグループがいる。両義的な体験だった」。
告発する側と擁護する側――この分裂こそが、プロバズニークを本作の企画に向かわせた出発点だった。事件から十数年後、MeToo運動の高まりのなかで彼は改めてこの分裂を思い出し、「なぜ沈黙が続いたのか」を描くことを選んだという。本作は告発映画ではない。理解を試みる映画である。
恩顧という補助線
この分裂は、政治における恩顧(パトロネージ)構造と驚くほど似た形をしている。地方政治の後援会が、陳情への対応や予算の誘致といった具体的な便益を通じて個人的な忠誠を作り上げ、後にスキャンダルが表面化しても「あの人が自分にしてくれたことは事実だから」という論理で支持基盤を維持するように、クリンスキーもまた、選抜チーム入りや海外ツアー同行という具体的な便益を、団員本人だけでなくその家族にまで配っていた。親が減刑嘆願を用意しようとしていたという事実は、後援会長が不祥事後も候補を守り続ける構図とほぼ重なる。恩顧の単位が個人ではなく家族ぐるみに及ぶ点は、宗教団体やスポーツの強豪校など、閉じた選抜共同体に共通する構造かもしれない。
劇中でヴィテクがカロリーナに「ありがとう、それでいい」とだけ告げて去る場面、楽譜を手渡し「覚えなさい」と告げる場面――これらは恩顧の授与そのものの演出だと読める。選ばれること自体が報酬であり、その報酬を配る権限を握る者に対して、周囲は容易に沈黙する。
Under The Film:
沈黙はどう組み立てられていたか
この「沈黙の構造」は、単一の理由では説明できない。少なくとも三つの層が重なっている。
競争が連帯を破壊する。選抜制という仕組みは、少女たちを仲間ではなく競合関係に置く。誰かが声を上げれば自分の椅子が空くという現実的な利害が働くため、告発は正義ではなく裏切りとして機能してしまう。
家族が構造に取り込まれる。親自身が「選ばれること」に価値を見出してしまえば、娘の違和感よりも合唱団内での地位が優先されかねない。目撃者になり得た存在が、恩顧構造の受益者でもあったという二重性。
組織の名声が個人の告発より重くなる。〈バンビーニ・ディ・プラガ〉という国際的に評価されたブランドそのものが、それを壊すことへの心理的なハードルを告発者に課す。
そしてもう一つ、本作が最も慎重に扱っている問いがある。ヴィーテクの優しさは演技だったのか、それとも本物でもあったのか。映画はこの問いに判定を下さない。カロリーナが経験した”選ばれた喜び”は、搾取の手段であると同時に、彼女にとって確かな感情でもあった――その両義性こそが、本作の恐ろしさの核であり、プロバズニークが「告発ではなく理解」と語る所以だろう。
鑑賞のすすめ
事件の詳細を知らなくても、本作は十分に伝わるる。だが背景を知ったうえで観ると、“優しさ”と”搾取”が同じ表情の下に同居し続ける様が、より鋭く迫ってくるはずだ。
『ブロークン・ヴォイス』(2025年・チェコ・1時間46分)
監督:オンドジェイ・プロバズニーク
出演:カテジナ・ファルブロバー、ユライ・ロイ、マヤ・キンテラ、ズザナ・シュラヨバー、マレク・チソフスキー、
イバナ・ボイティロバー、アンナ・ミハルツォバー、アネシュカ・ノボトナー
配給:クレプスキュールフィルム
公開日:2026年9月19日
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