
『PERFECT DAYS』の不完全さと、一見美しく見える理由
名匠ヴィム・ヴェンダース監督作にして、日本が誇る名優、役所広司主演の映画『PERFECT DAYS』
ミニマムなストーリーでありながら、まるで僧侶のような日々を送る主人公の姿を繊細に捉えた本作は国内外で絶賛されている。
トイレ清掃員として働く男の日常がなぜかくも観た者の憧憬を誘い、美しく見えるのか?
その”美しく見える”仕組みを紐解く

© 2023 MASTER MIND Ltd.
瓢箪から駒! な傑作
まず、大前提として個人的に好きな作品であることを述べておく。日本企業と公益財団法人の活動をPRする目的からスタートした作品でここまで素晴らしい映画が生まれたのは稀ではないだろうか。

“清貧”という名のおとぎ話
「こんなふうに生きていけたなら」。
言わずと知れた本作のキャッチコピーである。
役所広司演じる無口で、つつましくも内面の豊かさと温かさを感じさせる“平山”という主人公、ヴェンダース監督ならではのロードムービーのような通勤風景と平山の心情に連動したレトロなカセットテープのBGM、随所に散りばめられたモノトーンの木々、肉体労働の後の一番風呂と気心の知れた店での1杯、就寝前の読書。単調なようでいて決して同じ日はない毎日。
まさに”清貧”という言葉がふさわしい、質素だが小さな発見と喜びを静かに味わいながら過ごす日々。
仕事と雑事に追われ、気がつけば1週間が終わり、また次の1週間が始まる、というような時間に追われる日々を送っている身としては質素でもこんな暮らしができたなら、と思わずにはいられなかった。
だが同時にやはりこれはフィクションで、おとぎ話だからこそ美しく見えるのだ、とも思った。
その理由をこれから述べていくが、筆者個人の完全な私見であり、ネタバレとなる部分も多分に含むのでまだ未見の方はご了承のうえ読まれるか、そうでなければご遠慮いただいた方がよいだろう。

“面倒”な部分がバッサリ省かれている
まず、平山の勤務体制。
彼は早朝、自宅から自分の車で仕事現場である公園へ直接向かう。そして担当のトイレがある公園を順次回って清掃し、終了次第そのまま帰宅の途につく。出社時も退勤時も勤務先に向かうことはない。
それ故、勤務中に会う社員は同じ仕事現場に入る遅刻魔のタカシ(柄本時生)と臨時で入った清掃担当の女性・佐藤(安藤玉恵)のみである。
作中、勤務先の女性と電話で話すシーンがあるが、それのみで実際に顔を合わせるのは上記のわずか二人だけである。
これにより、職場での人付き合いが最小限に絞られているのだ。
どこでもそうだと思うが、複数の人間がいれば多かれ少なかれ気が合う合わない、気を遣ったり遣われたり、楽しいこともあれば嫌な気分になることもあるだろう。
当たり前のことだが職場や学校での人間関係というものは自分では選べない。
選べないということは、ストレスの元となる場合が多いということだ。だが平山が顔を合わせるのは同僚の二人だけであり、上司や他部署の人間と会わずに仕事は終了である。
つまり、ストレスの元が限りなくカットされているのだ。
ちなみに2024年2月現在、実際に「THE TOKYO TOILET」の清掃を担当している「東京サニテイション株式会社」のHPを見ると、トイレ清掃担当者のインタビューはないが道路清掃部門と公園班の方のインタビューが掲載されており、1日の仕事の流れが記載されているが、どちらも「出社」から始まっている。
その後、「MTにて作業工程の確認」から「車両設備チェック」となっており、作業が始まるのはそれからである。
至極真っ当な流れであり、業務で使用する車両を点検するのは必須であるが、ともすれば“面倒”な部分でもある。
この”面倒”な作業前後のミーティングや車両点検がバッサリ省かれており、平山の勤務体制はなんとも気楽で自由なものとなっている。

現実をざっくりと横に避けた演出
仕事中の描写についてに移ろう。
同僚のタカシは「どうせ汚れるのだから」と、適当にしか掃除しない。対して、平山は実にこまめに清掃する。トイレの部品を外してそのパーツに合わせたブラシを使用したり、自作の掃除用具を持参して手際よく磨き上げてゆく様は実に気持ちが良い。
しかしこれも疑問が湧く点である。
業務に使用する道具は基本的に会社側が用意するものではなかろうか?仮に、自作がOKでもそれを使用するには会社の許可がいるのではなかろうか?
その道具を使用する対象は公共物である公園のトイレであり、例えば自作した清掃用具でトイレや建物を破損してしまったり、洗浄に使用する洗剤などの使用方法を誤って何らかの事故を起こしてしまった場合、その責任は誰が取るのか。
その描写を省いただけと言われればそれまでだが、腑に落ちない点である。

その他にも仕事始めに素手でトイレ内のゴミを拾うシーンが数回あるが衛生面及び安全面から考えて、おかしいのではないだろうか。
いくら毎日丁寧に掃除しているとはいっても、不特定多数の人が利用するトイレの床に落ちているものが衛生的にきれいだとは思えないし、素手で触ると怪我をするようなものが落ちている可能性だってある。
逆に手袋をしているが故に気になるシーンもある。
上記のゴミを拾うシーン以外は基本的に清掃中は手袋をしている。
平山がトイレの壁の隙間に差し込まれた陣地取りゲームが書かれた紙を拾って、見知らぬ誰かとゲームをするほほえましいエピソードがあるのだが、清掃に使用している手袋をした手で紙を広げて印を書き込んでいることを思うと、台無しになってしまうのである。
もし私がこのゲームの相手で、清掃用の手袋をした手で紙に触っていることを知ったら、ゲーム自体はやりたくても紙に触るのをためらうと思う。
こちらは手袋を外していれば全く気にならなかったはずなのに、何とも残念である。

作業着を週に一度しか洗濯しないのもおかしな点である。
私だったら、家のトイレを掃除した時に着ていた服を翌日そのまま着ようとは思わない。
ましてや、公園のトイレを何か所も掃除する際に身につけていた作業着をそのまま自宅の壁にかけ、連日着るなどありえない。
最低でも洗い替えがもう1着あって、毎日洗いながら交代で着るのが妥当なのではないだろうか。
平山の住居はいかにも古くて質素な長屋だが、昔ながらの方法で新聞紙と箒を使って小ぎれいに掃除するシーンもあり、”清貧”をアピールしている。
だがその一方で確実に汚れているはずの作業着を洗わずに連日身に着けるというのは、矛盾しているとしか思えない。
洗濯の話に触れたのでそのまま続けるが、風呂なし洗濯機なしの長屋住まいの平山は週に一度まとめてコインランドリーで汚れものを洗濯している。
お金がかかるから、週に一度しか作業着も洗わないということなのかもしれない。
無駄なお金は使えないだろうから。

だがそれにしては、平山は基本的に毎日外食である。
決して高いものではないが、朝は缶コーヒーのみ、昼食はコンビニのサンドイッチ、夜は居酒屋で1杯やりながらの晩飯である。
そして、週末には行きつけのスナックで美人ママ(石川さゆり)や常連たち(モロ師岡、あがた森魚)と飲みながら憩いのひと時を過ごす。
これが悪いと言いたいわけではない。
誰だって息抜きや人との触れ合いは大事である。
だが現実的に考えた時に、この生活スタイルでお金が足りるのだろうかと思ってしまうのだ。

ネタバレの一つだが、本作の後半で平山が実は裕福な家の出であることがほのめかされる。
だから自炊などはしない、できないという設定なのかもしれない。
しかし一方で、毎日洗濯や自炊をすることは面倒なことでもある。
つまりプライベートの部分でも、“面倒”な部分は省かれているのである。
仕事のシーンでもプライベートのシーンでも極力“面倒”な部分は省き、作業着も週に1回の洗濯で事足りるほど汚れていない公共のトイレ掃除の仕事。映画の中で汚物や吐瀉物が映し出されることもない。
だがどんなに「THE TOKYO TOILET」が最新鋭の清潔を極めた設備で掃除で汚れなかったとしても、体を動かす仕事をしているのだから汗はかくはずだ。
そういった現実をざっくり脇によけて作られているのだから、よく見えるわけである。

本作は元々、「THE TOKYO TOILET」のPRを目的とした短編映画が企画されたところからスタートしている。
その際にヴェンダース監督が招聘され、企画側の協力を得て長編映画に練り直したとのことだが、ヴェンダース監督の手腕と役所広司をはじめとする俳優陣の名演も相まって見応えのある作品となっている。
プロモーションとして考えるなら最大の効果を上げたと言えるだろう。

踊るホームレスは未来の平山の姿?
最後に、田中泯演じるホームレスの存在について一言述べたい。
作中、平山が清掃中に度々見かける踊るホームレス。
木陰で誰の目も気にせず、むしろ見られていようが見られていなかろうがそんなことは関係なく踊る姿はまるで生きている人間ではなく、何かの象徴のように見える。
ヴェンダース監督の代表作、ベルリンの壁崩壊直前のドイツの街を舞台に、子供にしか見えない天使が人間に恋する姿を描いたファンタジー作品『ベルリン・天使の詩』(1987年)を思い出して欲しい。
無心に踊り続ける田中泯の姿は、まるで天使のようにも見える。
そこで思い起こすのは、主演の役所広司と田中泯は風貌がよく似ていて、親子の役を演じたこともあるということだ。
だが、平山の父親は別にいることが示唆されるため、本作の中では親子関係ではない。
では、踊るホームレスは未来の平山の姿なのだろうか?
聖人のようにシンプルに生きる平山の姿を重ねてゆくとこの二人は連なってゆくようにも連想できる。
役所広司自身も、とあるインタビューで「平山もホームレスになった過去があるのかもしれないと考えた」と答えている。
平山はすでにいい歳の壮年男性であり、体を使う仕事ができるのは良くてあと数年だろうが蓄えがあるようには見えず、現在の日本が年金だけで暮らせるわけがないことは周知の通り。
だとすれば、意地悪な見方をすると今は一見『PERFECT DAYS』だが、その未来は如何?となるのだ。
しかしながら、ここで平山は実は裕福な家の出であるという設定のため、何だ大丈夫じゃん、平山さんは。となる。
けれども、そんな都合のいい話があるだろうか。
もちろん、本作はフィクションであり、プロモーションに端を発した映画である。
プロモーションであれば美しく見せるのは当然のことだし、ましてやドキュメンタリー映画ではないのだから全てのことにおいて現実を描く必要はないし、現実を描くことが本作の目的や作品性を高めることに必ずしも沿うことではないだろう。
それでもネチネチと重箱の隅をつつくような瑣末なことを書き連ねたのは、筆者個人の庶民感覚からすると”上から目線”を感じてしまったからだ。

清貧な生活の裏にある”ゆとり”
平山は清掃作業員の仕事を自ら選んだ人として描かれている。
けれど、実際にそれを本当に希望して清掃の仕事に就く人がどれだけいるだろうか?いや、清掃の仕事に限らずとも希望の職種に就きそれで毎日の糧を得ている人がどれだけいるだろうか?
いわんや、平山は自らそれを選んでトイレ清掃を生業としている一方、いつでもそこから抜け出せる人物なのである。
庶民の僻みと取られることを承知の上で言えば、平山は裕福な人間が気まぐれで”清貧”な生活を期間限定で過ごしているだけにも見えるのである。
未来の生活に対して不安がないということ、これがどれだけ心にゆとりを与えるか。
であれば確かに、「こんなふうに生きていけたなら」。と思う。
Awards:
- 第76回カンヌ国際映画祭:コンペティション部門正式出品作
- 第76回カンヌ国際映画祭:主演男優賞・役所広司
- エキュメニカル審査員賞(キリスト教団体が選ぶ人間の内面を豊かに描いた作品に贈られる映画祭から独立した特別賞)
- 第96回アカデミー賞国際長編映画賞部門・日本代表
- 第36回 東京国際映画祭・オープニング作品
『PERFECT DAYS』(2023年・日本・ドイツ・2時間3分)
監督:
ヴィム・ヴェンダース
出演:
役所広司、中野有紗、柄本時生、アオイヤマダ、田中泯、麻生祐未、石川さゆり、三浦 友和、 甲本雅裕、犬山イヌコ、モロ師岡、あがた森魚、他
© 2023 MASTER MIND Ltd.